Long Story

ハートの欠片 No.21

 大地の奥底から低い音がうねる。本当に人の喉から発されているのを疑ってしまうほど、どんな動物にも似ていない。
 怒り、失望、嘆き。たくさんの嫌な感情が音波になって体を貫く。
 胸が潰されそう。痛い。苦しい。必死に耳を塞いでも無駄で。
 感情に溺れる。食われる。自分ひとつ分の気持ちなど、もはやまやかしでしかない。そんな錯覚に陥る感情の塊が、頭を隙間なく埋め尽くす。
 低音から高音へ。鼓膜を震わせる悲痛の声は聞くことができる限界を越えた挙げ句、脳に直接響きはじめた。体内を遠慮なくかき混ぜ、泣く選択肢も叫ぶ選択肢も与えてはくれない。
 不快なんてレベルをとうに越えている。まるで、思考と負の感情が直結しているように流れた。
 これは何……?
 まぶたを開けると視界が斜めに滑っていた。ふわりと浮く感覚から、倒れかかっているらしいと悟る。神経が麻痺しきていて、体を支えるなんて考えが間に合わず、流れに身を任せていたら。
「萱! 大丈夫か?」
 逞しい腕に抱きとめられる。その直後、頭を蝕んでいた感情の渦が一瞬で消え去った。
「ごめん、ありがと」
 腕を掴み、自分で体を支える。
「どうかしたか」
 いたわるような柔らかい視線に、何が起こったか話そうと口を開いたけれど、残念ながら言葉を発するまで至らなかった。
「申し訳ございませんが、悠長に話している暇はなさそうです」
「邪羅、さん」
 十六夜の向こうに、魁を睨む邪羅さんが佇んでいた。横顔でこちらに問いかけている。
 光の花が消えたので、頼りになる光源はぼんやりとした外灯と月明かりのみ。知性が漂う輪郭は拙い光を受け、薄く笑っていた。
「妙な力を感じたので戻ってきました」
 十六夜は魁と邪羅さんを見比べてから、邪羅さんの近くに歩み寄った。
「怠惰はどうした」
「消えました」
 会話は短い。ふたりの間に、乾いた空気が立ちこめる。
「邪羅……いや秩序」
「いかがなさいました、叡智」
 次の言葉を待ったけれど、その先に続いたのは無言だけだった。その間に、光を一切反射しない剣が静かに動く。鋭い音が風を十字に切り刻み、残像が光になって自分たちを狙う。
「何でもない」
 十六夜は何事もなかったように迫る光を砕く。声の静けさとは真反対の、ガラスに似た破裂音が光と共に散った。
 邪羅さんは槍を立て直し、柄を地面に打ちつけた。魁と邪羅さんに揺さぶられっぱなしのあたしの心は、その硬い音で一層寒さを増していく。
 光の花に酔いしれる表情と、怠惰に問われ一瞬見せた冷たい表情。鮮明に残っていたそれらの姿が、近い背中で二重になって見えた。
「ひとまず、この状況をどうにかしないと」
 邪羅さんの冷静な判断。きっと何を聞かれそうになったのか予想した上で牽制したのだろう。その通りだけれど、気持ちが苦しい。
 自分で体をぎゅっと抱きしめる。その時だった。
「なぜだ」
 魁の声がした。
 黒い影に目を凝らす。様子に変わりはない。
 空耳……?
 辺りを見渡すと、十六夜の目が「どうした?」と語りかける。
「何でもない、よ」
 口に出して否定すると。
「なぜ、なんだ」
 また、魁の声が聞こえた。
 イヤホン越しのように耳の中で声が響く。似たような体験は、まだ記憶に新しかった。
「なぜ、オレを置いてまでここへ来た」
 魁の中にいたときと同じ。
 瞳を閉じ、胸に手を当て、深呼吸をひとつ。聴覚、嗅覚、触覚。外側に切り離せるものは全部切り離して、手の平に意識を乗せる。
 嫌な感情の塊は魁のものだったのだろうか。あれも、ハートの力の一部なのだろうか。様々な出来事がつながりを持たない点として存在している。全てに共通しているのは、ハートと魁だ。
「何ならわかるんだ」
 平坦な声が脳に届いては途切れる。何かを伝えようとしている。
 集中しろ、あたし。体は十六夜が守ってくれる。
「全て忘れたというのか」
 ハートの中に入った時と同じように、心臓のリズムと呼吸を整える。時折響く声のような音に、一点集中をかける。だけど、あたしの気持ちが届かない。
 ふと思い立つ。
『忘れたって……何を』
 もしかして、と頭の中で語りかける。脳内に響くのであれば、自分の声も届けられるんじゃないかと考えた。
 そして。
「忘れていることすらわからないのか?」
 会話が成り立つ。
 ——捕まえた。

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