Long Story

光の欠片 No.16

 そんな所に飛び込むなんて、十六夜の意思を無視しているのと同じ。だけど……十六夜は優しい。
 あたしを凝視して数秒後、咎めもせずにふわりと笑って、
「ま、しゃーないわな。お付き合いしますよ」
 頭をぽんぽんと叩いて、近所に散歩でも行くかのように軽く言った。
 指先からじんわりと染み込む優しさが心地良い。この手に勝る精神安定剤なんて、この世に存在するんだろうか。
 甘えたい。すがってしまいたい。弱さをあぶり出すその手は不安を察知しているのか頭に乗り続けていたけれど、無理矢理体を引きはがした。
 こんな時に甘える自分は嫌だ。目的を果たすために、ここにいるんだから。
「邪羅さんは、どこ?」
 周りを見渡す。子供たちがはしゃぎ、お母さんたちがおしゃべりをする。自転車に乗っている人やハトに餌を与えている人。止まっていはいるけど、何の変哲のない普通の光景が広がる。
 近くで動いているのは十六夜と自分だけ。邪羅さんがいない。
「あそこにいる」
 呟く十六夜があたしの背後を示した。それは甲高い叫び声が充満していた場所。
 ゆっくり振り返ると、噴水の傍らに邪羅さんの姿があった。距離はそう遠くないので、このまま一気に詰め寄ろうかと考えたけれど、すぐさま掻き消える。
 相手はあの邪羅さんだ。駆け寄ったところで瞬間移動されるはず。
 ハートの中に呼び寄せたのは咄嗟の判断だった。ハートに入ったあとのことは、何も考えていなかった。
 どうしようかと次の行動を探っていたら、噴水をくまなく眺める邪羅さんがうっとりと笑った。
「自然の造形美は……やはり素晴らしいですね」
 そう言って、宙で停止している水の玉へ手をかざす。
 時が止まっているせいか、光や景色を吸い込んだ噴水は大きな氷細工に見える。確かに、綺麗ではあるけれど。
「見慣れた風景でしょ」
 当たり前のコメントを述べると、水の玉を突いていた邪羅さんがこちらへ振り向いた。
「注目してはいませんでした。全く……僕とした事がどうかしていた」
 彼はあたしたちと距離を置くでもなく近寄るでもなく、ただそこに佇んでいた。直射日光のきらめきの中で、子供たちが笑う。そんな微笑ましい光景のそばに、ひっそりと立つ違和感。この世界は、邪羅さんには不釣り合いな気がする。
 お互いに硬直したまま、無音が通りすぎる。風の音も靴の音も鳴らない空間に心細さが増して行く。
 唾を飲み込んだ時、邪羅さんは再び水の玉に手をかざした。そして、何の前触れもなしに懐かしいことを口にした。
「この世界の成り立ちは覚えていますか」
 テーブルの上で水滴の跡をつけながら滑るグラスが浮かんできた。場所はファミレス。印象深い話だったから思い出すのに時間はかからなかった。
「物理の話だよね」
「そうです」
「覚えてるけど」
 物質、力、思念……それぞれが相互に関わり合って世界はできている、と。そんな話だった。
 現実感のないこの風景と一体どんな関係があるんだろう。接点がまるで見つからない話に薄気味悪さを感じる。そんなあたしを無視するように、邪羅さんは静かに続けた。
「この空間では物質と時間の関連性はない。従って、ここで動けるものは視覚的に物として捉えられても、実質、物としては存在していません。ただし」
「ただし……?」
「あなた以外は、という条件付きです。萱さん」
 無意識に身構えていた拳をほどいた。どういうことかと尋ねる前に、彼の口は動き出す。
「萱さんはこの空間においても怪我をしますね。つまり、物として存在していることになります」
 広々とした公園には音を遮るものがなく、声はさえざえと響き渡る。
「あたしだけルールが違うのは知ってる」
 同じ話を十六夜から聞いていたから、自分だけ異なる存在なのは重々承知していた。見た目は彼らと同じだから、違いなんて全然わからないけれど。
 ちらりと十六夜を見ると、警戒心を隠そうともせずに邪羅さんを睨みつけていた。向こうの出方がわからないだけに、どう動けば良いのか迷っているように見える。
 些細な判断の誤りがあたしに直結する――居心地の悪い緊張感が立ちこめていくのは、自然としか言いようがなった。
 そんな空気に答えるのは、邪羅さんから発せられた奇妙な圧力。目に見えない巨大なビルが自発的に迫ってくる、そんなあり得ないことが起きそうな気持ち悪さ。
 足は容易く制御を失った。
「それなら話は早い」
 意識に刷り込まれたまじないに似て、抵抗できない脳へ言葉が直接流れ込む。
「僕はね、以前からやりたいことがあったんです」
 何を、と聞く気にはなれなかった。むしろ知りたくない。その先を言わないで欲しい。そんな願いが叶うほど都合の良い展開は待っていなかった。
 息吐く一瞬の間。動けないあたしの目前に、長い槍を添えた邪羅さんが出現した。
「時の制約を受けないこの空間で、世界のルールを変えるとどうなると思いますか」
 答えが思い浮かばないどころか、質問の意味が全く理解できなかった。何の話かと聞き返そうとしたら、一気に距離を詰めてきた彼がニヤリと笑った。
 これは……この問いは。答えが返ってくる前提で問われたものじゃ、ない。
 以前と比べて濁りが増した視線が、そう物語っていた。向こうに泥沼でも広がっているんじゃないかと思えるほど、濁った視線が。

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