Long Story

光の欠片 No.17

 邪羅さんの名を呼ぼうと口を開きかけた時だった。空気を切り刻む悲鳴が耳に届く。悲痛な声を完全に他人事として聞いていたけれど、時間を置いて気がついた。これ、自分の声だ。
 聞き慣れた声なのに反応できなかった。自分の変化に頭が追いつけない。そのくらい、目の前に広がる光景は異常だった。
 足元にあったはずの地面が、ない。十六夜の背中も一瞬で消えて、視界には木とマンションの屋上が広がる。でも、それが見えたのも数秒のこと。何もかもが即座に足元へと流れていった。目で追いかけると、噴水の姿が豆粒のように小さく見える。
 そして、頭上に近づく青の色彩。
 ――空に、落ちる。
 全身総毛立つ。頭を抱えても背中から魂が引き千切れそうで、体中の細胞ひとつひとつが恐いとわめき散らしていた。その軋みは、死というものに肩をたたかれたのだと悟らされる。
 止められない自分の声が、聞き慣れない異音にすり替わった。喉の奥が引きつって呼吸さえもままならない。脳を締めつける激痛まで襲い出し、何倍にも濃縮した耳鳴りが押し寄せてきた。痛い。苦しい。空に飲まれる。
 気を保てているのは奇跡だった。今まで味わってきた死の恐怖が甘いものだと、どんどん遠くなる地表に思い知らされる。
 意識が闇に落ちて行くのは自然なことだろう。だけど、先に待っているのは終わりだけだから必死に抵抗した。目を閉じたら死ぬ。死ぬぞと。自分に何度も訴えたのに、頭を襲う激痛はさらに強まる。とうとう抗う気力が空っぽになり、無理という言葉がちらりと頭をかすめた時、なすがまま闇に引きずり込まれた。
 薄れゆく意識の中、自分を支え続けてくれた名前を口にすると体が急激に減速した。背中に熱を感じると同時に明るい茶髪を肩越しに見た。腰から伝わる温もりが安心を与えてくれて、ありがとうと今にも泣きそうな顔に触れた途端、完全に気を失った。
 それからどのくらいの時間が過ぎたのか。全身を襲う痺れで意識は朦朧としていたけれど、頬に当たる冷たい温度で一気に覚醒した。首をまわして見えるのは、木製の背もたれと噴水。そして、コンクリートの地面。どうやらベンチに寝かされているらしい。
 普通の状態に戻った……?
 浮遊感が体に残っている。胸の中でざわめく恐怖は、体を起こすという行為でさえ困難にさせた。もう二度と飛ばされないよう、背もたれを固く握りしめて邪羅さんと十六夜の姿を探す。
 ふと、隣の噴水が目に入った。水の玉が数珠のように連なっていて、間近で見ても透明度の高いガラス玉にしか見えない。幻想的で美しく、邪羅さんの見とれる理由がありありとわかった。その中でひと際丸い玉が、きらりと何かを反射する。瞬時に振り返った。
 遠く。表情が見えないような遠い空中に、対峙するふたりの姿があった。
 入道雲に重なる影は体が浮いているのにも関わらず、そこに大地があるかのように駆ける。杖と槍が交錯すると互いを削る金属音がここまで届いてきた。尖った音は途絶えるどころか加速する一方。槍は突き上げ、杖は横腹を狙う。ふたりともすれすれで避けると、再び武器が交わった。
 遊びではない。それが嫌でもわかってしまう。
「どうして……?」
 溢れた疑問は愚問でしかなかった。指先に残る痺れが、ふたりの対決する理由を物語っている。だけど、争いにきたわけじゃない。危険に晒されたのもまだまだ危険が孕んでいるのも知っているけれど、ここで傍観しているわけにはいかない。
 動かないと。
 恐る恐る地面に下りた。平衡感覚が正常に戻っておらず、視界が少し歪むけれど何とか歩けそう。頼りない足でふたりに近づいていった。
 髪の間を抜ける争いの音が、一歩を踏み出すごとに大きくなる。噴水を横目に通り過ぎてしばらく歩くと、争いの音が突然切れた。
「重力を変えたのか」
 十六夜の声だ。距離があるのに腹の底に押さえ込むような声が聞こえてきた。
「反転させてみました」
 邪羅さんは距離をとりながら空中を切り刻む。表れたのは十字の光。猛スピードで十六夜を狙う様は、まるで突風のようだった。
「みましたって、おまえ……」
 十六夜が光を打ち砕く。その直後、十六夜の周りに輝く剣が出現した。見たままに例えるなら剣の檻。縦横無尽に飛び回り、肩、脇、脚と容赦なく彼を貫きにかかる。
「十六夜!」
 自分の戸惑いの声は争いの音にあっさりかき消された。音の元は散れ散れに吹き飛ぶ光の剣だ。十六夜を中心に生まれた青白い膜が、幾千もの剣を粉々に砕いていた。
 雪と見紛う儚い余韻に向け、邪羅さんは槍を放つ。銀の軌跡を描いて十六夜の体を狙うも、杖のひと振りで槍は打ち落とされた。向かう先は噴水。水しぶきで遊ぶ子供たちに直撃すると霧となり消失した。もちろん子供たちは無傷だった。
「おまえが物の法則を変えられることは知っている。だが、萱に力が及ぶことを把握していて、なぜ実行した。秩序」
「普通の空間であれをやると、地球は文字通り塵と化します。萱さんだけが物として扱われる、この空間でなければならなかったのです。おかげさまで良いデータが取れました」
「良いデータ、だって?」
 頭上から冷たい気配を感じて思わず足を止めた。十六夜の背中から、ぞっとするような怒りを感じる。
 十六夜が杖を振り上げると、周りに粒子が浮かび上がった。渦を巻いて踊り狂うのは黄金に輝く大蛇。空を埋め尽くさんばかりに膨張し、首が分裂していく。
「何だよそれ。良いデータって、そんなデータのために……それを知るためだけに、わざわざ重力の法則を変えたのか?」
 重々しく言い終えた瞬間、蛇は邪羅さんに照準を合わせ――弾けた。大口を開け、四方から邪羅さんを飲み込もうと飛びかかる。
 迎えるは邪羅さんの手から生まれた光の網。蛇を捕まえる気だ。
「その通りです。ただの実験ではありましたが、ひとつわかったことがあります。どうやら彼女には時も流れているらしい」
 邪羅さんの姿が掻き消える。不吉な光を放つ蛇は目標を失って網に激突した。長い体が折り畳まれて網はしなやかに伸びる。弾力性のある網は、大きく反動をつけて蛇を跳ね返した。速度は倍以上。十六夜はうろたえることなく紙一重で避けた。
「それがどうした。おまえの能力だったら結果なんて予想ついただろうが」

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