光の欠片 No.31
ゆっくりと歩き出す。少し進んだところで足下の感触がわからなくなった。さらに数歩進んだところで、今度は呼吸が耳に届かなくなった。次は視界。この世界で唯一色を保っていた体は、形までも失った。
人である証拠だったものが、隅々まで塗りたくられた白に全て奪われてしまった。それでも平然としていられるのは、光の花に導かれているとわかるからかもしれない。見えるとか見えないとかは問題じゃなかった。前方に漂っていると、あたしは確かに知覚している。
歩いて、歩いて、歩いた。
やがてたどり着いたのは、何もない場所だった。光の花が身を寄せ合って留まっている。あたしは見えなくなった手のひらで光の花たちに触れた。
ぽたん、と、水滴の落ちる音が聞こえた。
そこからの動きはとても速かった。指先から光の花が一気にふくれあがり、あたしの体を包み込みむ。文字通りの瞬く間。輝きに飲まれて、体がぐらりと揺れる。光をかき分けて飛び出すと、そこには見慣れた光景が広がっていた。
騒然とした声。もみくちゃになった椅子。そして、天井を向いた上履きの裏。
これは学校だ。
次から次へと目に飛び込む色彩に軽い吐き気を覚えたものの。椅子の中から顔をのぞかせた長い茶髪を見た瞬間、吐き気が吹き飛んで意識が覚醒した。
十六夜!
名前を呼んだつもりだった。だけど、あたしの呼びかけは声になっていなかった。間違いなく声にしたのに、口から出てこない。それどころか、ごめんね、なんて言葉を勝手にしゃべっている。
体が、言うことをきかない。
十六夜は制服の上着を脱いでワイシャツになったかと思うと、ワイシャツまで脱いでTシャツ一枚になった。
「萱ちゃぁん。ひっどいなぁ」
軽口を叩きながら体を入念に調べている。ひじが赤くなっていることに気づくと、丁寧にさすっていた。そんな彼と、制御不能なあたしが会話を重ねる。それを見ていたら、胸が苦しくなった。いたたまれなかった。
一連の流れが過去の自分を脳に滑り込ませる。言葉のひとつひとつは忘れたけれど、この続きを想像するのは簡単だった。十六夜はTシャツを脱いで、色素の薄い素肌を目の前に晒す。クラスメートの視線を一身に浴びてにやりと笑い、言う。
「俺の美肌。守られてる?」
……初対面の朝。しかも、初めてハートが発動した時のシーンだった。今度は自分の記憶を見ているらしい。
驚きよりも胸の苦しみのほうが強かった。たった数ヶ月前の出来事なのに、こんなにも懐かしいなんて。
それにしても、不思議だった。ハートの世界では白と黒の世界に閉じ込められ、五感がどんどん失われていった。でも、体を動かしている感覚は残っていた。今は逆だ。意志と体が連動しない。さらに、記憶を辿っているのだから、過去のあたしが考えていることを理解できてもいいと思うのだけど、さっぱりわからなかった。触感や嗅覚も失われたままだから、映画を再生している状態に近い。
まだ髪の長い撫子に肩を叩かれて、あたしは振り返るなり抱きついた。被害者だと主張する自分の情けない声に心の中で苦笑いしていたら、場面が急に暗転する。次に瞳を開いた時には青空が広がっていた。夏よりも遠く感じる空は、水分を多く含んでいそうな雲が折り重なって浮かんでいる。その狭間にひとつの黒い点が見えた。点から輪郭に。輪郭から全身に。形がみるみる変わる様子にあたしは慌てているらしい。当たり前だ。この頃は、彼の存在を知らなかったのだから。
その人物が降り立つ前に、呆然としたあたしを槍が守る。弾かれた体は軽やかに地に足をついた。無に満ちたその姿は、今と変わらない黒。ハートの世界と同じ色を持つ人、魁。
状況が読めてきた。ハートが反応した時の記憶ばかり見ている。今見ているのは魁と出会った時のものだ。形を成していない、ただの正負の感情に飲み込まれたことは今でもありありと思い出せる。
ハートの躍動を感じたのは数少ない。次に来るのはきっと……そう考えはじめた途端、再度暗転した。瞳を開いたのと同時に、思い出そうとした場面と目の前の情景がぴたりと合わさる。微笑む怠惰に青ざめた十六夜。さらに、数秒後にはあたしを蜂の巣にしているだろう針の山が迫っていた。そして、震える手で顔を覆った時、静電気が体を駆け抜けた。集まった力は外に放出されて針の山を粉々に砕く。
そんな光景を、過去のあたしはピントの合わない視界で呆然と見ていた。相当怖かったんだろう。でもあたしは、この出来事に全然意識が向かなかった。貫かれるような強い気配を背中に感じたからだ。
ハートだ。ハートがいる。
ぞくりとした。近い。真後ろだ。それなのに、体の動きは過去のあたしに支配されていて思い通りにならない。目はあたしを仕留めそこねた怠惰を追う。
こんなに近いのに……!
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