Long Story

光の欠片 No.5

 目が合ったのは自転車の鍵。キーホルダーと共に軽やかな金属音を立て、あたしを誘う。
 実のところ、朝という時間帯のわりに体は重い。座ったまま眠ったからに違いない。歩いて帰るという選択肢は、鍵が視界に入った瞬間にあっさりと崩れた。
「お言葉に甘えさせてもらおうかな」
 鍵を軽く弾いて返事をすると、ずいぶんと大げさに揺れた。
 ――その直後。
 ガラステーブルの携帯が、何かに応えた。
 セミの声が一気に遠のき、耳がバイブ音に囚われる。
 視線を滑らせると、着信を伝えるランプがけたたましく光り散らしていた。
 ……電話がかかってくる可能性としては、ふた通り。親か、撫子か。
 脳裏で彼らの顔が浮かんでは消えていく中、腕を伸ばすという行為は自分の中からすっぽり抜け落ちていた。見かねた十六夜が、バイブの弾みで今にもテーブルから落ちそうな携帯を拾い、握らせてくれる。
 手の中で震え続ける感触に呼び覚まされると、ようやくセミの声が耳に戻った。体が苦しい。どうやら呼吸さえ忘れていたらしい。鳴り止まない携帯を硬く握りしめ、会いたい人を強く願った。
 どうか。どうか撫子でありますように。
 小刻みに震える手を必死に制しながら、そっと携帯を開いた。


 十六夜に運転してもらって、指定された公園へと辿り着く。自転車が止まってもいないのにも関わらず、あたしは後ろから飛び降りた。
 途端、背後から聞こえるブレーキ音。でも、かまっていられない。
 素早く公園内へ目を走らせると、中程にあるすべり台の影で風に流れる長い黒髪を見つけた。
 声が届くような近さだけど衝動的に体は駆け出す。この距離が煩わしすぎる。
 近寄る足音に気づいたのか、彼女は伏せた顔をゆっくりと上げた。昨日ぶりとは思えないほど懐かしい、その瞳が自分に気づいたと同時。あたしは彼女に飛びついていた。
「撫子……撫子」
 温もりを力いっぱいに抱きしめる。指先に手触りの良い髪が絡まった。
「萱?」
 戸惑い気味の声。探していた、涼やかな声。
 胸の奥でくすぶり続けていた不安は十六夜が軽くしてくれたけど、ここにきて、撫子の声を聞いてようやく消え失せた。
 一言。しかも名前を呼ばれた、たったそれだけの事なのにどうしよう、嬉しい。
 目の前にいる。ちゃんと名前を呼べる。返事が戻ってくる。
 ――生きてる。
 リダイヤルし続けていた時には触れることですら恐ろしかった、一番の恐怖。口の上を滑るだけで現実味を帯びそうだった。それが、やっと離れていった。
 撫子が生きてる。それが嬉しい。すごく嬉しい。
「電話ごめんね? たくさんかけたから、びっくりしたでしょ」
 理由がなければ大量の着信なんてありえない。間違いなく驚いたはずだ。
 だからこそ、電話越しに開口一番、どうしたのって、言ったんだ。約束を勢いで取りつけたあたしの態度にも納得できていないだろうけど、何も言わずにこうして会ってくれた。
 ねぇ、どうやってありがとうって伝えればいい? ううん、ありがとうって言葉だけじゃ、伝わらない気がする。
 心臓が割れそう。気持ちは膨れ上がるばかりで、どんな言葉に乗せたって押さえることはできないんだろう。
 そんな想いを込めて力まかせに抱きついていたら、撫子は拘束された腕で抵抗しながら、苦しいとささやいた。
「ごめん! 大丈夫?」
 慌てて体を離すと、困惑したように首を傾げる。
「大丈夫だけど……でも、どうしたのよ?」
「聞きたいことがあったんだけど、もういいんだ」
「何それ」
「顔見たら満足しちゃった」
 心の底からの安堵は、顔を自然にほころばせる。触らずにいられなくて、手をぎゅっと握っていた。
 撫子は全然理解できないはずだ。そのくらい意味不明な言動をしているけれど、彼女は追及せずに笑い返す。目を細めて口角を少しだけ持ち上げる微笑み。彼女の名前にぴったりな華やぐ笑顔だけど、その表情に違和感を覚えた。
 悟られないよう、手早く彼女の体を観察する。日にさらされた素肌は昨日と変わらず綺麗だった。シャンプーの香りも普段と同じ。声のトーンだって。
 それなのに、どこかが違う。差を問われても答えられないような、極々些細な空白を感じる。全てが同じはずなのに胸がざわざわとさざ波を立てる。
 力の抜ける手を肩から二の腕へ滑らせた時だった。彼女はほんの一瞬だけ、顔を引きつらせる。すぐさま笑顔に戻ったけれど、自然に生まれた笑顔じゃない、取り繕われたものだということが嫌でも読み取れた。
 当たった部分は、腕が袖からのぞくギリギリの場所。
 後ろに十六夜の気配が近づくのを感じながら、本人の許可なく袖をまくり上げた。
「だめ!」
 隠すように手で覆ったのだけど、あたしへの焼きつけを防ぐには遅かった。
 ばつが悪そうに首を振る撫子。当たり前だ。なぜなら白い肌に不釣り合いな、赤黒い指のアザがあったのだから。
 真正面から握ったことがわかるほど、指の形がくっきりしていた。見る人によっては入れ墨と間違えるんじゃないかと思うくらい、濃い。
 横に並んだ十六夜もタイミング良く目撃したらしく、小さい驚きの声がここまで届いたのだけど。あたしは衝撃のあまり、手で覆われた箇所を呆然と見つめるしかなかった。
 何を言うでもなく、口をパクパクと閉じては開いてを繰り返して。
 やっとの思いで、
「何、されたの?」
 乾いた声でそう聞いた。

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