Long Story

記憶の欠片 No.9

 動物園でしか見たことのないトラ数頭が、牙をむき出しにしてこちらを威嚇していた。警戒といった生易しい空気ではない。肌に鋭く突き刺さるような、ゾクッとする敵意。
 距離を取りたくて後ずさりすると、十六夜の背中とぶつかった。
 逃げ場がない。囲まれた……!
 これ以上一歩も下がれない。真後ろには十六夜がいる。
 呼吸が浅く苦しい。極限まで緊張していた。
「落ち着いて、本物じゃないから。大丈夫だから」
「そんなこと言ったって!」
 牙の隙間からヨダレがぼとりと滴り落ちた。
「あたしたちどうなっちゃうの? 食べられちゃうの?」
「有名パティシエのケーキ食べてないから、何があっても絶対死なん」
「冗談なんてどうでもいいから!」
 咎めても十六夜はなお余裕。さきほどの焦りは完全に消えていた。
 そんなあたしたちのやりとりを眺めていたトラ。様子を見ながらも、恐くて目を合わせられなかったけれど、ふとした拍子に、目を合わせてしまった。
 瞳孔が一気に開く。吐き気を催す嫌悪感が全身に巡った。
 ――嫌だ!
 目を固く閉じ両手を握った。誰に祈っていいのかわからなかったけれど、とにかく助かるよう願った。握った両手が、全身が、カタカタと震える。立っているのが奇跡だった。
 そんな空気を打ち破ったのは、
「冗談じゃない」
 芯の通った声と……鈴に似た音。
 澄み切った音色を吸い込むと、頭から水でも被ったように急速に体の熱が冷めていった。同時、唸り声が弱くなる。
 薄目をそっと開ける。トラが耳をたたんでいた。
「脅えてる……?」
「これを見たからじゃないか?」
 十六夜を振り返って見上げた。
 大きく右手を掲げている。いつの間にか先端にリングが連なった杖が握りしめられていた。
「動くなよ。萱」
 杖が踊り、空気が揺れる。
 くるりと回転して夕空を指すと、淡い光を帯びてわずかに振動した。
 脅えきったトラは、とうとうあたしたちに背を向ける。だけど、十六夜はその隙を逃すことはなかった。
 杖の軌跡に乗り、輝く残像が空間を彩った――直後。杖の先端から閃光が放たれ、まっすぐトラを貫いた。まばたきも間に合わないような一瞬の間で、トラは抵抗することすら許されずに跡形もなく消滅した。
「とりあえず、これで大丈夫そうだな」
 安堵の溜め息を漏らした十六夜。言い切ったすぐ後、柔らかい空気が立ち込めたのを感じて、どっと汗が噴き出た。体に力が入らなくなり、足元から崩れ落ちる。
 ほどなくして時が元に戻ったのを知らせたのは、風で流され肌に触れた、噴水の水しぶきだった。


「……今日ファミレスで伝えたけれど、俺は催眠術を使っていない。あれは信頼関係の元で成り立つ思い込ませの技術だ。俺のは違う」
 ポツリポツリと話は始まった。
 地面にヘタり込んで動けなくなったあたしを、十六夜は近くのベンチに座らせた。そして、どこかから買ってきた缶コーヒーを握らせた。
 あたしはされるがままだった。指先から伝わる温もりが、正気を保たせてくれた。
 だけど、耳に届く街の音が、オブラートに包まれたように脳に響いてこない。バスのクラクションや帰宅中の足音は、あたしを余計に心細くさせる。
 雑音や人工的な光に包まれた環境こそ、あたしが十五年過ごしてきた日常だ。これからも暮らしていく、大切な日常だ。それなのに――今は憎らしいほど、遠い。
「俺のは記憶そのものを置き換える。もちろん催眠術じゃないから、ある日術が解ける、なんてことはない。一生置き換えた記憶のままだ」
 俯きっぱなしのあたしを、しゃがみ込んで下から覗く十六夜。遠慮と戸惑いが混ざった静かな語り口だったけれど、あたしは何も反応することができなかった。
「常磐撫子をはじめ、この学校中全員の記憶を塗り変えた。でも、たったひとりだけ、それができなかった人がいる」
 大きな瞳が不安げに揺れる。
「段取りも手順も抜け目はなかった。つまり、できなかったんじゃなく効かなかったんだ。萱には通じなかった」
 長い睫毛が瞬く。
「薄々感づいてるかもしれないけど君は」
「やめて」
 反射的に出たのは露骨な拒絶。
 さっと陰った十六夜の表情を無視して立ち上がり、缶コーヒーを彼に突き返した。空いた手のひらを見る。まだ震えていた。
「それ以上聞きたくない」
 自分がどんな顔をしているかわからなかったけれど、十六夜がひどく悲しげだ。
 でも、今さらそんなこと、どうでも良い。
「……帰る」
 理不尽なことだってわかっている。だけど、真実を探ろうとしておきながら、いざ直面するとどう対処していいかわからなかった。
 おぼつかない足取りのまま帰宅しようとすると、両腕を思いっきり掴まれる。
「ごめん。俺もこんなことになるとは思わなかった。君にこんな思いをさせるつもりはなかった……だけど、ダメなんだ。君に危険が!」
「何言ってんの?」

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