Long Story

恋の欠片 No.9

 潮が引くようにざぁっと音が消えて行く。余韻が薄れたあとは沈黙だけが残った。それ以外は何も変わった気がしない。
「さすがです萱さん。文句をつけようがありません」
 思いも寄らないほど遠くから話しかけられる。そう言えば、指先から邪羅さんの感触がない。
 恐る恐る目を開けると、手を握り合う前までの光景と同じ風景が広がった。
「ここは、あなたの中です。僕たちはハートの中にいます」
 穏やかな声に振り向く。邪羅さんは、十六夜が背もたれにしている木の幹を丁寧に撫でていた。
「成功したの?」
「これが証拠です」
 邪羅さんは微動だにしない十六夜を示した。固い表情で眠っているようにしか見えないけれど、これってやっぱり。
「十六夜も動かないんだね」
「上手に僕だけを呼んでいただいたようです。だから、彼の時間は止まっている」
「やっぱり、そうなんだ。時間そのものが止まるんだね」
 座ったまま周りを見渡した。木漏れ日でさえ刺すような強さだったのに、今では陽射しが柔らかい。何より、噴水で遊ぶ子供たちや見守るお母さんがマネキンのように停止している。
「幸いなことに、ハートでもその法則は同じようですね」
 十六夜の顔をのぞき込みながら彼はそう、呟いた。手応えを確かめているのか、十六夜の髪に触れている。
「法則って?」
 疑問に思って聞き返すと、邪羅さんは瞳をしばたたかせた。あごに手をやり眉をひそめる。
「前々から奇妙に思っていましたが、十六夜さんから僕たちやハートの話を聞いていないのですか?」
「あー」
 ハートの話をはじめ、細かい説明は聞いていない。気持ちの準備ができた頃は、十六夜がこんな状態になったから、詳しいことを知らないまま時間ばかり過ぎた。
 言葉に詰まり困っていると、邪羅さんは物音立てずに近寄って、あたしの正面に座りなおした。
「先日お伝えした、世界の成り立ちは覚えていますか?」
 邪羅さんは考え込むように口元を塞ぎながら聞いた。
「物質・力と……何だっけ」
「思念、です」
「そうそう。それ」
「それらに時間という流れが加わって世界ができている」
 頭の中にファミレスで説明に使ったグラスを思い浮かべる。確か、他の領域の影響を受ける、とか何とか。
「それがどうしたの?」
「この空間はそれらの内、力と思念だけで構成されています」
 突拍子もない内容にあたしは想像することも返事もできなかった。その様子に気づいた彼は十六夜の側に再び近づき、身長より高い位置にある細い枝を指差す。
「例えば、この枝に僕がぶら下がったら折れると思いますか?」
「折れるでしょ。普通」
 質問の意図がわからなかった。足の太さくらいある枝ならともかく、指のように細い枝だ。ぶら下がったら当然折れるだろうし、あたしの手でも簡単に折れそうだ。
 邪羅さんはあたしの答えを聞いて満足そうに頷いたあと、その細い枝にジャンプして両手で掴む。
「え!? ちょっと!」
 何してるの? と続けるはずだった言葉が、喉の奥に引っ込んだ。そして、あたしは目を疑うことになる。
 なぜなら、邪羅さんの足が宙に浮いていたからだ。両手は細い枝をしっかりと握っている。
 折れて、ない。
「どうなってるの?」
 差し伸べようとした手を体に引き寄せ、自分の胸に押しあてた。
「時が止まるということは、物が動かないということです。したがって物は壊れることがないので、ぶら下がっても木の枝は折れない」
 振り子のように体を揺らせて邪羅さんは解説する。
「おそらく、僕たちみたいなのが暴れても物が壊れないように仕組まれているんでしょうね」
 そう言えばと思い出したのが、邪羅さんと待ち合わせていた時に襲われた光景。広場にいた買い物客は、怠惰の攻撃を受けたにも関わらずびくともしていなかった。
 よくできているな、と感心すると同時に違う疑問が湧く。
「じゃあ、どうしてあたしたちは動けるの?」
 物が動かないのなら、あたしたちは止まっていなければいけない。ハートの中にいるのがあたしと邪羅さんだけだったとしても、物の制約は生きているはず。
 細い枝の上によじ上った邪羅さんは、頭に被さった木の葉を摘んでぶら下がる。時が止まっているとはいえ、奇妙な光景だ。
「今の僕たちは物じゃないんです。思念体……言わば魂だけだと思ってください。だからこうして」
 彼の姿が消え、あたしの目の前にいきなり出現する。
「うわっ!」
「瞬間移動まがいのこともできるわけです」
 びくりと体が奮え、座った体勢のまま思わず仰け反った。邪羅さんは妙に嬉しそうな笑みを浮かべる。
「物質は瞬間移動できません。僕が萱さんの前に現れた以上、今の僕は物でないと言い切れます」
 腕をついて体を支えると、手の平に柔らかな雑草の感触がした。体を起こして手の平を見る。親指の付け根にちぎれた雑草がくっついていた。
 物質の法則とか言われても、あたしには普通に見えるんだけどな。指で草を弾きながら、そんなことを思った。
「そういうもんだっていうのはわかった」
 とりあえず理解できたのは、時間が止まっているから物が壊れないということと、ここで動けるのは同じ異空間を共有している魂だけということ。
 脚や服についた草を払って立ち上がると、邪羅さんは難しい顔をして口元を覆った。あたしを伺うように視線を交錯させ、さらに十分な時間を置いてから固く結んだ口を開く。
「……僕たちについては何かご存知ですか?」
 十六夜とあたしの現状を重んじてか、邪羅さんは遠慮がちに尋ねる。
 僕たちについて。
 怠惰が言った、人じゃないって話のことだろう。胸が音を立てて跳ねたけれど、あたしは構わずに首を振った。
「十六夜の能力くらいしか知らない」
 彼は神妙な顔してさらに考え込み、
「知りたいですか?」
 今度の口ぶりに遠慮はなかった。

しおりを挟む

PageTop