Long Story

真実の欠片 No.8

「やめろと言っている!」
 怠惰に掴みかかろうとする十六夜。
 彼女は間一髪で十六夜の腕を避けると、裾の長いドレスを翻して後ろに跳んだ。ヒールの高い靴が、テンポ良く音を渡らせる。
「そんなに感情をむき出しにするなんて。叡智ってば、こっちにきてから面白い奴になったんじゃない? まるで」
 もったいぶるように口を噤んで、口角をつり上げた。
 怠惰は十六夜へ伝えるそぶりを見せながら、あたしに向かって喋っている。次のセリフを強調したいために、わざと話を区切ったのだろう。
 見かけ上は、ただの笑み。その視線に絡まった人だけがわかる、笑みに隠れた黒さ。
 聞かないことを選ぶ隙なんて、どこにもなかった。
「まるで――本当に人間になったみたい」
 怠惰は一体、何を言ったのか。
 辞書で調べる必要もない簡単な単語の組み合わせなのに、理解できなかった。
 麻痺したという感覚に近い。一瞬で脳をやられ、考えるということにブレーキをかける。かといって聞き返すのは、耳が嫌がる。
 あまりに苦しくて足元から崩れてしまった時、まともに呼吸していなかったのに気づいた。
 浅く息を吐くと、怠惰の言葉が血の流れに乗って全身を巡り出した。
「……人間になったみたい、って、え?」
 あたしは掠れた声で反芻した。唇が痺れて上手く言えない。自分の口で繰り返しても、にわかには信じられなくて。
 だけど、十六夜の背中から滲む冷たい空気が、紛れもない真実だと告げている。
「怠惰、おまえ」
「怒った顔も堪らなく素敵ね……ゾクゾクするわ」
 彼女が挑発した瞬間、鈴のような透き通った音が鳴り響く。すぐそばで、不意に現れた杖が放物線を描いて怠惰を狙った。
 彼女は笑みを絶やさずに片腕で受け止める。
 より硬く、杖が鳴いた。
「今すぐここから立ち去れ怠惰!」
 先端を突きつけて十六夜が叫んだ。勢い良く踏み込みながら杖を繰り出すけれど、怠惰は華麗に避ける。
 相反するような嬉々とした笑い声が目一杯反響した。
「そう焦らないでよ。萱さんに紹介したい人がいるから来たのよ。もっと大勢で遊んだほうが面白いでしょうし、ね」
「紹介したい人……?」 
 十六夜の攻撃を避けた怠惰は、軽やかに跳びあたしたちと距離をとった。
 時計台の影を踏みつぶし、長い髪をたくし上げる。豊かなブロンドがふわりと舞い、プラチナの粒子が散ったその瞬間。
 胸が、無条件で震えた。
 思い出すことさえ叶わない。懐かしいという感情も置いてきた。そんな古いモノトーンの香りが、突然匂った。
 意識の隙間に何かが混ざり込む。目を背けたくなるほどの何かを訴える。気持ちの正体は不明。あたしが単純に忘れてしまったのか。
 そこまで思って、自分で驚く。
 ……忘れた? 何を。
 胸に手をやり、ぎゅっと拳を握った。
 直感だとしても、何故忘れたと感じてしまったのだろう。思い出せない古い香りが、あたしに忘れたと思わせたのか。
 どちらにせよ、何も汲み取れない。頭に紛れる度に心臓が押されて苦しいだけ。
 でも、ひとつわかることがある。それは気持ちの根元。
 あごを上げて上空へ眼を凝らした。小さな黒い点がぽつりと見える。雲と雲に挟まれ、ひと目だと鳥に見間違えそうだけど。
 目を閉じて、開けた時には異なる形。
 ――人間だ。
 人間が、落ちてくる。
「いざ……」
 離れてしまったうしろ姿に呼びかけようとして、声を飲んだ。
 一度、二度、瞬きするごとに劇的に大きくなる。さっきまで腕や脚のシルエットしか見えなかったのに、今は目や口の輪郭がはっきりしている。
 落ちる速度が早い。もう、避けられない。
 膨らむ人影になす術なく、しゃがみこんだまま焦点の定まらない瞳で眺めていると、
「お待たせしました」
 青い空と黒い点の前に灰色が被さった。
 はっとしてピントを合わせる。そこには線の細い制服と赤茶色い髪をした背中が立ちふさがっていた。
 つい先日聞いたばかりの、落ち着いた丁寧な口調。
 ファミレスでノートに向かい、真剣に数学を取り組んだ時と同じ声。
「邪羅、さん」
 今日、ここで会う予定だった人物の名を呼ぶと、彼は振り返ることなく背中で返事をした。
「遅くなって申し訳ございませんでした。教師に捕まっておりまして」
 邪羅さんがここにいる。
 あたしの考えていたことは正しかった。
 十六夜が、邪羅さんはあたしに近いと言った。あたしに近いから記憶が短時間しか消せないと。
 つまり、十六夜と邪羅さんは同じ類いの人。いや、違う。
 ――十六夜も邪羅さんも、人じゃない。

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