Short Story

重歌 -かさねうた-

 僕は歌で感情を表す。
 一般的に、感情は文字や言葉にして表現するらしいけれど、僕の場合は勝手に音符になった。それは小さな頃から変わらない。
 何かしらの感情が芽生えると、音符が口からこぼれていた。楽しいときは高い音が飛び跳ね、悲しいときは低い音が地面を滑った。目の前の出来事が自分の気持ちとシンクロして言葉へ変わる。言葉が体の隅々で踊ってメロディーをもたらし、僕はそれを吐き出した。
 誰に聞かせるでもない、歌うための歌。


 生理行動と等しいほど、歌は日常に組み込まれたパーツだった。それ以外に感情を表す方法を知らなかったのだ。
 小学校に上がってからは家族以外の人と行動を共にするようになって四六時中歌えなくなっていった。学校生活という共同空間は、僕に退屈な時間を与えるだけだったが、音楽の授業だけは例外だった。
 はじめて五線譜を見た。はじめてドレミを覚えた。
 つまみ上げられるほどの薄い教科書なのに、地球中の音楽が詰まっていた。感動なんて一言じゃ到底足りない感動を覚えた。
 例えば童謡。
 歌う前に童話の流れを頭で組み立て、情景と音を繋ぎ合わせる。似合う濃さを探しては音符に結びつける。数分に満たない歌の中でそれを繰り返し行い、イメージを固めて。そして、瞳を閉じて深呼吸をひとつ。これが完成した合図。
 腹を膨らませて口を開く。あとは喉を振動させるだけで、連なる声が歌になった。
 高く低く。強く弱く。体中の器官を総動員して音をどんどん編み上げていく。
 幼心ながら、物語の再現を試みていたのだと思う。全てを出しきったあと力尽きてうずくまることも多々あった。心配する教師や友人に大丈夫だと言いながら、自分の体が特殊な性質を持っているのを知っていたのだと思う。つまり。
 僕の体は音楽で出来ている。
 そう気づいてから人前で歌うことが恥ずかしくなった。
 歌うというのは自分の切れ端をばらまいているのも同じ。歌に対して人と違う思いを抱いていたが、まさか自分自身がここまで深く歌と関係しているとは。
 唐突に自分の歌声が気になるようになった。僕の声は、周りの人にどんな形で届いているのだろうか。
 一度気になってしまうと止まらない。人に褒められても声が尖っている気さえして、口を閉ざす機会が増えていった。元々器用だったのが功を奏し、歌わずに過ごす秘訣を掴めたので、日常生活は無難に過ごせるようになった。
 中二になった今では、歌う回数は普通の人と何ら変わらなくなっていた。
 そんなある日の放課後のこと。
 僕は学校の別館に来ていた。特別教室が集まっている校舎で、放課後に足を運ぶのは部活に勤しんでいる生徒ぐらいだ。今はテスト期間に突入して部活動が行われていないため、この校舎にいるのは教師だけだ。
 僕は美術室に財布を忘れるという大事故を起こしたので、教室へ取りにきていた。幸いなことに美術の教師が財布を救助してくれていたので無傷だった。
 財布を鞄にしまい込み、ひと安心で教室を出た時だ。ふと、ピアノの音色が流れてくるのに気づいた。
 優しい響き。
 まるで空気が自ら道を開けるかのように、ピアノの音色を校舎中に渡らせていた。校舎が音を楽しんでいるのではないかと錯覚する程の澄んだ音色。
 ここは二階。音は三階から聞こえてくる。
 僕は下りようとした足の向きを変えた。単純に、興味が湧いた。
 僕は物音を全て排除しながら近づいていった。自分の発する雑音でピアノの音を邪魔するのが嫌だった。いつまでもこの音に満たされていたいと思った。
 とうとう音楽室の前まで辿り着いた時、僕は閉められた扉を開けた。後先は何も考えていなかった。
 静まるピアノ。そして、腰まで届きそうな黒髪がピアノの前で揺れた。
「あ」
 ひと言発して我に返る。だが遅い。
「ごめんなさい! お邪魔しました!」
 ピアノの前に座った少女が振り返る前に、大慌てでドアを閉めた。聞くだけならドアの前で静かに聞いていれば良かったのに、ドアを開けてしまった。その行動を自分自身で不可解に思いながら、背を向けて走り出す。ピアノの余韻があちこちに香る中、僕は逃げるように立ち去った。


 翌日の放課後。
 僕は再び音楽室の前まで来ていた。数日後にはテストが控えているのに何をやっているのだろう、と我ながら思う。だけど、どうしても聞きたくて来てしまった。
 今日はピアノの音が聞こえてこない。高鳴る心臓を押さえつけて音楽室の扉を引く。突っかかりを感じた。どうやら鍵がかかっているらしい。
「今日はいない、か」
 独り言を残して帰ろうとすると、不意に背後から金属音が耳に入った。人の気配がして僕は振り返る。そこには大きなキーホルダーを握り、鍵を振り回す少女が立っていた。
「君、昨日の子?」
 彼女は品定めするように僕を見た。長い黒髪の少女だ。昨日の人に違いない。
 上履きを確認すると僕と同じ色なのに気づく。同級生だ。
「昨日の子かって聞いてるんだけど」
 ピアノのイメージとは程遠い、勝ち気そうな瞳が僕に詰め寄る。思わず後ずさると、背中が扉にぶつかった。
「は、はいそうです」
 強い視線に耐えられず顔を背ける。間抜け面した顔が、茜色の窓に映った。
「何しにきたの」
「昨日の謝罪をしに。ピアノの邪魔して申し訳なかったな、と思って」
 謝罪したい気持ちも確かにあるが、本音は別だ。
 しかし、プラスチックのキーホルダーで頬をつつかれているこの状況では、何も話せない。
 彼女は興味なさそうに首を傾げ、扉の前から僕を退かせた。鍵を穴に挿し込むと、
「よかったら聞いていかない?」
 白い歯を見せて僕に笑いかけた。悪意の見えない、自信に満ちあふれた笑顔。有無を言わさない雰囲気に、何だかとんでもない人に関わってしまったと思った。だけど僕は、あの音色の秘密が知りたくて後ろに続いた。
 重く沈んだ空気が上履きにまとわりつく。彼女はピアノの前に座り、僕はピアノの横に立つ。グランドピアノが射し込む夕日を柔らかく反射した。
「昨日と同じやつでいいかな」
 大人しく肯定すると、彼女は指の関節を曲げて骨をパキパキと鳴らしはじめた。今からピアノを弾こうとしている人の行動とは思えない。どう考えても喧嘩の準備だが、彼女にとっては普通らしい。
 機嫌良く鼻歌を歌いながら、軽く試し弾き。鍵盤で滑る指は、見ているこっちが気持ちよくなる。
「同じでいいけど……曲名は何て言うの」
 昨日の音色を思い出しながら聞くと、彼女はくすくすと笑った。
「タイトルは『La fille aux cheveux de lin』」
 開けた窓から秋の風が舞い込み、彼女から生まれた一音を教室に巡らせた。落ち葉の香りに混ざる、ピアノの歌——。
「日本語名は『亜麻色の髪の乙女』」
 僕は絶句した。
 昨日扉越しで受けた衝撃が、木っ端微塵に崩れる。
 まるで映写機。重なる音色が、無機質な教室を見渡す限りの小麦畑へ塗りかえていく。僕の脇を白人の少女が走り抜ける。
 なんだこれは。聴覚だけの世界なのに僕の視界まで占領する。広がる景色に触れたら、小麦の触感さえしそうだ。
 体内で跳ねる旋律に、立ち尽くす以外の選択肢が見えなかった。
 呆然としすぎて曲の終了に全く気づけず、
「そんなに良かった? あたしのピアノ」
 と肩を叩かれても、現実へ帰るのに時間がかかった。
 小麦畑から教室へ戻ったのをやっとのことで認識すると、どっと汗が吹き出た。
 これは。この感覚は——。
「君も音楽で出来ているの!?」
 思わず口にしていた。
 この音を作り出した主は、僕と同じ人種だと直感したのだ。
「そうだね。そんな感覚に近いかも」
 彼女はうんうんと力強く頷いた。
「僕もそうなんだ! ねぇ、明日もここにいる? 聞きにきてもいいかな」
 僕は逸る気持ちをそのまま口にした。はじめて同志に出逢った。それが凄く嬉しかった。
「さすがにテスト勉強しないと……それに普段は吹奏楽部がここ使うから、昼休みしか時間取れないし」
「それでもいい。絶対聞きにくるから」
 彼女は若干たじろいでいたが、僕はそれどころではなかった。
 また聞ける。こんな人に巡り会えるなんて、僕はなんという幸運の持ち主なのだろう。今から、わくわくが収まらない。
 興奮覚めやらないうちにその日は別れ——僕と彼女は晴れて友達となった。
 彼女はたくさんの曲を聞かせてくれた。
 僕はまだ歌を披露するのが恥ずかしくて、彼女の前で歌っていなかった。時々咎められるが、彼女はピアノを聞いてくれるのが楽しいらしく、うるさく言うことはなかった。
 過去のどんな出来事よりも尊い時間。貪るように音楽に浸っていたら、あっという間に一ヶ月が過ぎた。未だに僕は彼女の前で歌っていない。急に寒くなったからか、数週間前から咳が絶えないのだ。喉も痛く、声が掠れるので風邪かと思っていたが、一向に治る気配がない。
 その事を彼女に伝えると、ピアノを中断させてこう言った。
「もしかして、声変わりじゃないの?」
 僕は驚いて喉を押さえた。
 全然意識していなかった。身長が急に伸びだしたのは認識していたけれど、声変わりの存在をすっかり忘れていた。
「高い声、出る?」
 ピアノの椅子から立ち上がった彼女は、意志の強そうな目をまたたかせた。僕はピアノから少し距離を置き、腹に手をあてて発声する。
 ドレミのドから一音ずつ上げて確かめる。彼女はピアノで音を先導して、僕もそれにならった。
「出ない」
 高い音域が全く出なかった。
 まさか。まさか——。
「歌えない?」
 口で言うと、背筋に嫌な汗が流れた。
 意識しなくても簡単に歌えたのに。いや、歌は僕の全てだったのに。
「歌え、ない」
 悪夢だ。これは悪夢だ。
 振り切りたくて頭を振るが、声から出るのは掠れた醜い音だけだ。
「変わりきったら歌えるよ」
 彼女はそうフォローしてくれたが、僕には他人事のように感じた。
「君に僕の気持ちはわからないよ!」
 ピアノの音は変わらない。だけど声は変わる。本人が留まることを望んでいても、声は変わってしまう。
「こんな声じゃ歌になるわけないじゃないか!」
 なだめようとしてくれた手を、僕は振り払って非難した。
 彼女は事実を突きつけただけ。これは自分の問題だ。だが、僕は唯一の支えと言うべきものを失ったのだ。
 怒りの矛盾点を把握しながら僕は逃げ出した。そこにいれば、彼女の綺麗な音と自分の声を比較してしまう。僕と彼女の距離を見せつけられる。
 僕の体は音楽で出来ているのに、歌えなくなったら……そんな僕は、僕じゃない。
 階段から慌ただしく下りる途中、盛大にこけた。丸太の如く転がり、体に染みついた音色がはがれ落ちる。
「痛い」
 体を起こし、制服に付着した埃を払って自嘲気味に笑う。
 僕はこけた。階段じゃない、音楽にこけた。見放された。愛想を尽かされた。きっと、彼女にも……。
 大切な尊い時間が、仲間や歌と共に離れた瞬間だった。


 それから僕は、音楽室に行かなくなった。
 僕には得られないものを彼女は育み続けている。同志なだけに、憎かった。見当違いの嫉妬を感じる片隅で、声が死ぬ前に歌わなかったことを悔やんだ。
 恥ずかしがらずに歌声を……この不器用な僕の心を届ければ良かった。
 どれだけ後悔しても、みるみるうちに声は低くなっていく。安定したのは年末で、歌えた歌はもう届かなくなっていた。
 そして、終業式目前の昼休み。廊下で彼女を目撃した。
 いつも通り視線を外して足を速めると、すれ違い様に膝を蹴られた。僕は驚いて彼女に目をやると、すくみ上がってしまった。世にも恐ろしい形相をしていたからだ。
 来て、とひと言で僕は引きずられる。連れて行かれたのは。
「音楽室……」
 授業以外は、避けていた場所。
「そこに立って」
 彼女はピアノの横を指して命令する。
「でも」
「いいから、立ちなさい」
 言い訳は一切聞いてくれないらしい。渋々従うと彼女はピアノを弾きだした。曲は弾き語りでよく聞かせてくれた『The Rose』という洋楽だ。途中まで曲をなぞらえ、ピタリと止めた。そして僕を睨みつけ、
 そして、
「歌って」
 短く言って続きを弾く。
 僕は耳を疑った。
 見苦しい声で、君の音を汚せと言うのか?
 そんなことしてみろ。僕が今まで以上に惨めになるだけじゃないか。
 頑なに口を開かない僕を、彼女はさらに突き放した。
「歌詞知ってるでしょ」
 指が曲をどんどん進めていく。
「歌はもう」
「私がいる限りやめさせない。私はまだ君の歌を知らないの。そんなの絶対にイヤ!」
 切ないメロディーが、怒りに満ちていく。
「僕はこんな高い曲歌えない」
「私に全てを委ねて。お願いだから、聞かせてよ」
 今にも泣き出しそうな表情をしている。とは言っても、僕の位置からは顔が見えない。泣きそうなのはピアノだ。僕だからわかるピアノの気持ち。
 胸を締めつける曲調が教室に充満した。僕たちふたりだけの異空間。
「歌って」
 その声が最後のひと押しだった。
 すでに暗記している歌詞を思い浮かべる。これは眠る薔薇の歌。
 いつもは歌詞の情景を思い浮かべていたが、今回はイメージする必要がなかった。目の前に座る薔薇を見つめる。刺を持ち、誰よりも美しく咲き誇る壮大な薔薇。
 赤い音色が僕の周りに浮かんでいる。味わうように吸うと血がぞくりとした。
 体内に侵入する音符が僕の本能を撫でた途端、迷いも何もかもが吹っ飛んだ。たったひとつの、感情を残して。
 歌いたい。
 はじめの一音に口づけた時、唇が痺れた。
 喉を開けることに意識を向ける。声が出て音が繋がる様に奮えを押さえきれない。
 僕の音楽が彼女の色で紡がれていく。音が溶けて混ざり合い、進化したのはふたりの歌。
 導かれるまま無我夢中で歌った。重なるリズムがあまりに心地よく、時間も空間も……自分自身でさえ二の次になった。薔薇の歌に囚われて魂が漂い、自分がどこにいるのかわからなくなった。その時ばかりは自分が誰だかも、わかっていなかった気がする。
 呆然と立ち尽くしていると、彼女に呼びかけられて覚醒した。体と空気の境界線を思い出して呼吸に追いついた時、じわりと涙がこぼれてきた。
「歌えたでしょ」
 涙が止まって落ち着いた頃、彼女は誇らし気に言った。
「……歌えたんだ、僕」
 口にすると、さらに実感を帯びてきた。
 彼女の音に自分の全てを注いだ。彼女はそれを受け止めるだけでなく、僕に合わせて音を作ってくれた。
 体中がぴりぴりとした達成感で満たされている。
 なんて人だろう。きっとこの人には一生適わない。
「僕……自分の体は音楽で出来てると思ってた。ううん、今でも思ってる」
 以前までは感情を表すのが歌だと思っていた。だけど今日歌を取り戻した時に、違うと感じた。
 僕にとって声で歌うのは生きている証。感情を乗せるだけでなく生きることそのものだと、確信した。思えばこの数ヶ月。歌を失ってから、僕は本当に生きていただろうか。
「僕は歌がなきゃ駄目なんだ。どれだけ形が変わったとしても、それが僕の音だから」
 彼女は顔を赤らめて嬉しそうに首を傾げた。

 一音が二音に。音符は旋律になって空気を巡る。世界はいつだって音が絶えない。
 その片隅に僕がいる。まだまだ小さい僕の音楽。
 いつまでも歌を重ねていきたいと心から願う。無数に溢れる、音楽の中で。

-おわり-

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