白味を帯びた青空が、都会のビル群で四角く区切られている。吹き抜けるビル風が大通りの樹々を煽り、裸の枝と七色の電飾をざわめかせた。
今日は街中に幸せが満ちる特別な日。ケーキを物色するサラリーマンやかじかむ手で恋人を待つ学生など、誰もが大切な人と過ごす夜を楽しみにしている。
そんなの日の夕刻、都会の一角でしわがれた大声が響いた。
「今日は満月だろ!? 何で三日月になってんだよ!」
六畳一間のボロアパートで、憤っている中年の男がいる。窓から射し込む光を背に受け、男の影が室内に伸びた。影の内側で縮こまっているのは一匹の黒兎。小さな前足で耳を折り、申し訳なさそうにしている。
「ごめんなさい親方。急いでお月様を準備したら間違えました」
「せめて空に上げる前に俺に言ってくれりゃ確認できたのに……このドアホ!」
男は仁王立ちで兎を咎めるが、小刻みに揺れる体毛を眺めていると、それ以上何も言えなくなった。男は苛立たし気に畳の上に座り込み、窓を見上げる。
青空で目につくのは太陽と雲。月はなかなか見つからない。今日は細長い雲があちこちに散らばっているので尚更だ。ただし、この男は職業柄、月が存在すれば見えなくても位置が掴める。そのため、雲の裏で隠れる三日月にすぐさま気づいたのだ。
男は小振りの瞳を細めて、寂しい頭皮を掻きむしった。
前代未聞の失敗だ。今日は満月が昇る日である。しかし空に浮かんでいるのは何度見ても三日月。長年、月の運び屋という仕事に従事しているが、昇らせる月を間違えるのは初めてだ。月が少し欠けている程度なら誤摩化しは利くが、満月と三日月では雲泥の差だ。天文学者が気づいたら騒ぎ立てるに違いない。
「今からお月様を降ろしてみる、とか」
兎は窓枠に飛び乗って恐る恐る提案するが、窓枠に頬杖をついた男は首を振った。
「小太郎、月を運ぶのに何時間かかった?」
「三時間です」
「今から三時間後だと、夜になっちまうだろうが」
指摘された兎は前足を窓に当て、男と同じように空を見上げた。
「月のクレーンは人工の光に弱いんだ。夜になったら一発でバレるぞ」
「そうですよねぇ」
立ち上がったままの兎は、前足で器用に手を打った。
「月が動くのはクレーンで吊るされてるから、なんて誰も想像しないでしょうしね」
「夢をぶち壊してみろ。『マジウケる』とか『ありえないんですけど』って言われるんだぞ」
口を尖らせて言う男に、兎は体毛を揺らして笑った。
「若い人にピンポイントで脅えなくても!」
「うるせぇ。バッシャバシャ写メ撮られて、ブログとかツイッターで公開されたかねぇや」
「月を運んでるのはハゲ親父だった! ってネットに流れるんですね」
「なんでそこで俺の顔まで漏れるんだよ……ってか、反省してないだろ」
男は兎の額を小突いた。怒りの込もっていない軽いものだったが、兎は手をあてて涙ぐむ。
「ともかく、どうにかせにゃならん。小太郎、俺の携帯持ってこい」
「『三日月なう』ってするんですか?」
「そんな自虐ネタしねぇよ! 電話すんだよ」
兎はちゃぶ台の上に転がっている携帯を背負い、男へ渡した。最新機種の携帯を慣れた手つきで操作して耳にあてる。
兎は窓枠へ再び飛び乗り、耳をそばだてる。数回のコール音のあと、女性の声が微かに聞こえた。
「――で、私のところへきた、と」
「おう」
ソファに腰をかけている男が、茶をすすって短く返した。湯気の反対側では気象庁の若い職員が頭を抱えている。
「雨を降らせろって言うんですか! クリスマスイブなのに!」
職員がソファ前の机を叩くと、男の隣で聞き耳を立てていた兎が驚いて跳ねる。男は荒れた指で兎の頭を撫で、職員を軽く受け流した。
「気象予報士ならできるだろ? たまにはずぶ濡れクリスマスもいいもんだ」
「いいわけありません!」
整髪料でまとまっていた髪が崩れて職員の額に落ちるが、男はあくまで涼し気だ。
「どうせ晴れてようが雨降ってようが、クリパとか言って室内にこもるんだろ」
「クリスマスパーティーを若者風に略さないでください」
職員が言い終えると応接室が静まり返った。茶をすする音だけが響いて、他は無音。男は頑なな職員を観察していたが、埒があかないので秘策を打ち出すことにした。
「なぁ……トカラ列島の一件は覚えているか」
男のセリフを聞いた途端、職員は顔を思い切り引きつらせた。それを見た男は飲み終えた湯のみを置いてニヤリと笑う。
「二〇〇九年七月、アジア圏で皆既日食があった。二十一世紀では最長の観測時間が期待できるっつーことで、世界中が沸き立ったんだよな」
「ええ、まぁ」
職員は歯切れの悪い返事をすると、仕立ての良いスーツからハンカチを取り出して汗を拭いた。
「日本のほとんどの地域では梅雨前線と重なって悪天候。土砂降りで観測どころじゃなかった、とな。折角の機会だったのに不運だよな」
「……はい」
「俺はちゃんと仕事したぜ? 雲に隠れてはいたが、俺の目には日食が見えた。なぁ、小太郎」
大人しく話を聞いていた兎は、ソファの上で立ち上がってガッツポーズを職員に見せる。
「月が太陽に重なった瞬間、大きなダイヤモンドリングが見えました!」
兎は興奮しながら飛び跳ねる。無邪気な姿に職員は顔を暗くさせた。
「普通の人たちにも見せてやりたかったよな。ありゃあ、見なきゃ損すんぜ」
「はい! みなさんにも見てほしかったです! 確か……梅雨前線も直前までは日本列島にかかってなかった気がするんですけどね。気候というのは本当に気まぐれです」
「数日前まで日本より北に停滞していた。だよな、気象予報士さんよ」
楽しそうに話し合う男と兎。明るい空気と暗い空気が、机を隔てて綺麗に分断されている。暗い空気に浸りきった職員は、観念したとばかりに手を挙げた。
「……そうやってじわじわといじめるの、やめてくださいよ……どうせ知ってるんでしょう」
「え?」
黒い瞳を楽しそうに動かしていた兎が、きょとんとして職員を凝視した。男は白い歯を見せて意地悪そうな笑みを浮かべている。
「竹取の姫さんから話を聞いた」
「やっぱり」
ふんぞりかえる男に、手で顔を覆う職員。兎は忙しなく首を動かして二人を見比べている。どうやら兎は事情を知らないらしく、男に問いかけた。
「かぐや様がどうかしたんですか?」
「どうもな、こいつが姫さんにちょっかいかけたらしいんだ」
「あらまぁ」
兎は頬に前足をあてて耳を垂らした。いやーん、と可愛らしい声を出して照れている。
「機嫌を悪くした姫さんが、こいつに月を見られたくないって言って他の気象予報士に雲を呼んでもらったそうだ」
姫は普通の雲じゃ透けるから嫌だと駄々をこね、無理矢理梅雨前線を呼ばせた。それを職員が聞いたのは、日食の前日だ。顔を真っ青にして天候を操作したが、梅雨前線は日本列島にしがみついているかのようにびくりともしなかった。その結果、日本国内で日食を観測できたのはごく僅かな地域のみとなった。
「おまえさんのことだ、手みやげ持って月に行ったんだろ」
「なぜそれを……まさか見てたんですか!?」
耳まで赤くした職員は過去を振り返るが、男は否定する。
「見てねぇが想像はつく」
生真面目な職員が、まずは挨拶からと月を訪れる姿を想像するのは容易い。緊張しながら異次元に通じる月の門をくぐろうとしたに違いないが、そもそも姫を口説くのに紙袋を持って行くこと自体が間違いである。
「あいつはインパクトで勝負しなきゃ会ってくれんはずだ」
「知ってますけど、物には順序ってものが」
「相変わらずかてぇなぁオイ。んなんだからモテねぇんだよ」
小言を受け、職員は大きく肩を落とした。その様子を見た兎が職員の隣に飛び乗り、体をすり寄せて慰める。
「大丈夫ですよ。かぐや様、そのうち会ってくれますから」
「小太郎君……ありがとう。でも無理なんだ。鍵がかかってて入れない」
「ええー!」
姫は月の門に鎖を巻き、内側から南京錠をびっしり取りつけたらしい。それどころか職員へ追い打ちをかけるかのように『入ったら殺す』という念のこもった注意書きを貼ったようだ。月には儚気なイメージがあるが、どう考えても程遠い。
「んなわけで、日食の件はこいつが原因。ほとんどの職員はそれを知らねぇはずだ」
「こんなのバレたら僕のクビがスパッと切れます」
「だろ? だったら、俺が何を言いたいかわかるよな」
「うっ」
躊躇する職員だが、自分に断るという選択肢がないのを把握したようだ。諦め顔で応接室の窓から賑やかな街並を見た。
時は刻々と過ぎている。夜になるまでおおよそ二時間。
わかっている。騒ぎを大きくしないためには、事を進めるしか手立ては残されていない。職員は深い溜め息を吐いた。
「……わかりました。やりましょう」
「そうこなくっちゃな。街のやつらには悪いが、今夜は雨にさせてもらう」
渋々肯定した職員に合わせて、男は勢いよく立ち上がった。早めに片づけようとする二人へ、兎は待ってください! と慌てて口を挟む。
「ミスをした僕が言うのも何ですが、お願いを聞いてほしいんです!」
応接室の入り口に向かっていた二人は、同時に振り返る。そして、ポツポツと語る兎の提案内容にしっかりと頷いた。
「いいか小太郎。今回の仕事はおまえの仕事だ。満月が空に浮かぶまで自分の力でやりとげろ」
兎は男に敬礼すると、おもむろに機械の前に立った。気象庁内に存在する衛星操作室は毎日出勤しているが、これほど緊張するのは月を初めて運んで以来だ。機械の液晶モニターでは、月が座標上で点滅している。
「慎重にな」
「安全第一、慎重第二。僕の手で満月を空へ届けてみせます」
自分への誓いを口にして、兎は二つのレバーを握った。
右を動かすとクレーンのフックが水平に移動し、左を動かすと垂直に移動する。操作方法はUFOキャッチャーと瓜二つだが、細かな技術を必要としている。なぜなら、月の上部にある引っかけ口にフックを通さなければならないからだ。空に運んでからは自動運転にできるが、月を浮かべる作業だけは細か過ぎて機械に任せられない。一歩間違えると月は落下し、たちまち大惨事となる。
兎は身震いした。
今日はクリスマスイブ。幸せが満ちる日に、悲しみを生むわけにいかない。兎はじっと時を待った。
男は部屋の窓から空を注意深く監視した。既に藍色が混じりつつある。焦りからか苛立たしそうに足を踏みならしていたが、その瞳があるものを捕らえた。
「曇ってきたぞ!」
別の部屋にいる職員が雲を呼んだのだろう。晴れた空が、どこからともなく出現した厚い雲で埋まり出した。
月が雲に隠れていく。男は自分の腕時計を人差し指で突いてから、待機している兎を指差した。
「よし小太郎、決行だ! 思いっきりやっちまえ!」
「がってん承知しました親方!」
街角で身を震わせていた女性が立ち止まった。あまりに寒くて空を見上げた時、思いも寄らないものを目にして驚く。
「ねえ見て! 雪が降ってきた!」
隣を歩く恋人へ伝えると、男性も天を仰いだ。
吐く息が白く溶ける、四角く区切られた夜空。街の灯を全身に受けた大粒の雪が、二人の視界を隅々まで埋める。人々は踊る雪に次々と足を止め、華やかに色づく街がより賑やかになった。
そんな光景を、薄暗い街灯の下に佇む中年の男と兎が見守っていた。
「喜んでます……良かった」
騒がしい街に背を向けて、二人は暗い家路を歩き出す。雲に隠れる満月をちらりと見て、男は満足そうに呟いた。
「ミスがきっかけだったが、良い仕事だった。雪なんざ俺には思いつかねぇよ」
後ろ頭に手を当てて兎が照れる。男はしゃがみこみ、手に持っていた紙袋を兎に見せた。
「クリスマスギフトってわけじゃねぇけどな」
兎が持つには大きすぎる紙袋。男は中身を取り出し、兎の首に巻いてやった。
「いくら体毛があるからって、寒い時は寒いだろ」
兎は首に巻かれたものに前足を添えた。柔らかい感触のそれは、小さなマフラーだった。
良く似合っている、と男は自分の肩に兎を乗せる。
ずっと戸惑っていた兎だったが、首に冷たい空気が触れないことから、プレゼントを受け取ったという実感が急に込み上げてきた。
「……ありがとうございます」
兎は男の頬にすり寄り、今日という日を見上げた。
明日になれば、空からの白いギフトに子供たちが喜ぶだろう。
月の秘密を隠そうとした、兎のアイデアだと知ることもなく。
-おわり-