Long Story

ハートの欠片 No.24

「良いこと思いついたわ。オヒメサマのハートもらっちゃおうかしら。そしたら私がハートになるのね」
 怠惰は腕の力を緩めることなく言った。一体どんな顔で、どんな思いで言っているのだろう。そして。
 十六夜はどんな気持ちで、この言葉を聞いたのだろう。
「私がハートになっても、叡智は当然守ってくれるのでしょう? 嫌いな私を守らなければならないって、どんな気持ちでしょうね?」
 暴走しかけていた魁でさえ無言を決めた空間に、怠惰の笑い声が響き出した。はじめはくつくつとこもるような声だったのに、次第に耳や脳へ爪痕を残しそうな甲高い声になる。
「おかしい! そっちの舞台の方が最高ね! そのうち愛し合ったりするかもしれないわね!」
 どこか壊れてしまったように、笑い声は止まらない。
「安心して叡智。私もちゃんとアンタを愛してあげる。だからちゃんと私を愛するのよ? それとも憎む? そっちのほうが面白いかもね」
 狂いかけた怠惰を目にして動ける人はいなかったと、朦朧とした頭で感じ取った。
「憎んで憎んで憎んで憎んで……ハートに残されたこの子の温もりに絶望しながら守り続けるといいわ」
 だけど、ただひとり。動いた人物がいた。
「ねぇ……いい案だと思わない? 魁」
 後方。背中からやや離れた所に、ハートを主張するノイズ。全身の痺れを上塗りして迫っている。足音はここまで届かず、神経だけが魁の接近を訴えていた。
 ゆらりゆらりと空に浮かぶような意識の中、唐突に幼い頃の自分が脳裏をかすめた。赤いランドセルが嬉しくて、抱きながら眠ったこと。初めて通した制服の袖に、大人の匂いを感じたこと。何年も昔に過ぎ去った想い出が、どこからともなくやってきてはあたしを通り過ぎる。幸せばかりだったあの頃の記憶が。
 死ぬ直前に見るらしい走馬灯がこれだと、不意に悟った矢先。あたしに密着した怠惰の体から、衝撃が伝わった。変な、変な衝撃が。
 怠惰の動きが止まり、首に絡まる腕がゆっくりとほどけた。弧を描いて、だらりと垂れ下がる。その動きを目で追いかけて――絶句。
 脇腹の真横から、黒い刃が正面に向かって伸びていた。それは怠惰のいる場所。
 どろりとした嫌な予感がした。それを肯定するように、浅い呼吸しかできなかった肺が大きく膨らむ。拘束がとかれた。
 違う、とかれたのじゃなく、砕けた。拘束していた紐へ無数の亀裂が走り、はらりはらりと落ちて行く。
 ――怠惰?
 刃の切っ先が上空へ放たれると、自分と並んでいたもうひとつの体に、ひびが入った。ガラス細工が壊れるかのように、端から中央へひびが進行して、ばりんと嫌な音を立てた。表面がめくれて剥がれ落ち、徐々に徐々に形が失われる。
 崩れて行く。
「オレとハートの邪魔をするものは、誰だろうと許さない」
 何が起きたのか理解できなかった。理解したくもなかった。
 体の動かし方を思い出せなかったあたしは、自分の手が震えているのを遠巻きから眺めていた。全身を巡る血が、鈍った感覚を取り戻そうと躍起になってくれるのに、ぼんやりとした意識は遠いまま。真後ろからコンクリートを踏みしめる靴音がしたけれど、よくわからなかった。
 ただ、それとは違う駆ける音には気がついた。
「萱っ!」
 鼓膜を素通りしかけた言葉が自分の名だと認識した時。
 暖かいものに腕を掴まれ暖かい何かに包まれた。目の前で金に近い茶髪がふわりと広がったのを見て、ようやく人だと理解する。
 誰かということも。
「十六夜……?」
 背中に回された力強い手のひらが、小刻みに揺れている。
「萱……ごめん」
 抱きしめる腕の力と相反するような、弱い囁き。声の一音一音に後悔が滲んでいて、十六夜の指先や胸から、あたしの体内に染み込んできた。大丈夫だと言いたかったのに、至近距離で感じた怠惰の最期に体はずっと震えたままだった。唇は動いても声が追いつかない。温もりにしがみついて、必死に震えを押さえこもうとした。
 それも束の間のこと。
 十六夜は、体を離してあたしを背中へかばった。その向こうには剣をたずさえた魁の姿。顔を手で押さえているけれど、指の隙間から酷く歪んだ目を覗かせていた。
 見たく、ない。その目だけは。
 ひとたび捕らえられると、全身に虫が這い回るようなおぞましい感覚が走る。どうしても耐えられず足が後ろへ逃げる。足取りを合わせる十六夜は、できる限りの間合いを取って魁を見据えた。
「自分が何をしたのかわかっているのか! 世界を崩壊させるつもりか!」
 杖をまっすぐ突き出した。
 剣を握り直した魁は力ないまま踏み込み、それを十六夜が受け止める。魁の固い唇から漏れたのは、
「それがどうした」
 はねつけるような答えだった。
「オレとハート以外に必要なものなど、どこにある」
「お……まえ」
 睨み合った剣を引き距離を取る。さらに交錯しかけた、その刹那。
 地面の奥深い底から神経が一瞬で麻痺しそうなほどの高音波が響き渡る。
「何、これ」
 頭が割れそう。耳を押さえて堪えようとしたら目の前の体が……十六夜の体が、ぐらりと揺れた。
 胸が、呼吸が、加速する。
 十六夜の手から離れた杖は空を舞い、地面に落ちるより早く消失した。
 ――十六夜?
 髪は前へ流れ、背中が大きく反り返り、そして地面へ体が倒れるまで。
 手を伸ばせば届く距離なのに、全てが偽りにしか見えなかった。

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