Long Story

ハートの欠片 No.6

「よー。おはよ萱」
 後頭部から聞こえる声色は、あたしの予想とぴったり一致した。朝らしく間延びした低音で、あくびさえ聞こえる。それに対するあたしの反応は……凄まじいスピードだったんじゃないだろうか。振り返り、誰か確認し、撫子の背に隠れて指を突きつける。
「あんたなんて知らない! 忘れた!」
 よりによって変な選択肢を選んだあたり、相当混乱していると思う。自分でも自覚はある。
「なんだよそれ……撫子ねーさんも、おはよ」
 あたしの威嚇攻撃をさらりとかわし、十六夜は眠そうな目を擦りながら撫子に挨拶をする。撫子もうぃーすと敬礼っぽく手をあてがって応答していた。
「おはよう蘇芳。ご機嫌治ったみたいだね」
 かばんを足元に置いた十六夜。背筋を伸ばし、撫子に倣って敬礼した。
「ご迷惑をおかけしました。蘇芳十六夜、復活したであります!」
「無事に復活して、何でこの子がこんなんになってるのよ」
「それがですね、話せばなっがーいひとコマがあるんですよ。な? 萱?」
 十六夜はひょいっと体を傾け、撫子の脇からあたしに向かって笑いかける。一昨日と変わらないのに、その髪色さえ明るさが増したような錯覚を起こす。
 戻ってくれたのは、自分だって嬉しい。嬉しいけれど。
「寄るな! 近づくな!」
 盾にしている撫子の背中を押して、一歩二歩と後ずさる。見える距離、手の届く距離と、近づけば近づくほど息苦しい。嬉しいのに胸が焼かれていく。それに戸惑う。
 なくなるのは余裕。自分がどんな顔をしているのか、どんな行動を取っているのかが見当つかない。
 あたし、今までどうやって笑いかけてたんだろう。
「ストーカーか何かかよ……俺」
 教室の一番後ろでの攻防。十六夜が一歩踏み込めば、あたしは一歩後退する。縮まらない距離に視線を絡めると、十六夜は冷静にツッコミを入れてきた。そんなあたしたちを見て、撫子は唐突に噴き出す。
「どーせスケベ心丸出しで何かやったんでしょ」
 真横に留まる十六夜の背中を景気良く叩き、ケラケラと笑った。十六夜は抵抗せずに目を細める。
「酷いなぁ。前にも言ったけど、俺純情少年だってば」
「そこ強調するんだ。純情を装いつつ何かしたってこと?」
「聞きたい? ねぇ、聞きたい?」
「やめぃ!」
 盛り上がる会話に異議を唱えてみるものの、空回りするうわずった声は、はしゃぐふたりにかき消された。目を背けて、クラスメートの塊ができている教室の入り口を凝視する。もういっそ、あそこから逃げたい。
 魅惑的な陽の光を眺めていると、十六夜は雑談の続きをはじめるような口調であたしに話しかけてきた。
「萱さー。課題やったか?」
「課題?」
 身に覚えがない。むしろ終業式だから、課題が出るとすれば今日だ。
 下唇に指をあてて記憶を探っていると、十六夜は頬に手を添えて艶っぽく吐息を漏らした。
「あんまり連絡くれないと、アタシ浮気しちゃうんだから……」
 声色を変えて、さめざめと泣くふりをする。大げさな演技だけど、泣くという行為が一昨日の姿と綺麗に被さる。そこまで思い出すと、流れるように玄関先でのひと言が蘇ってきた。
 ハートについて連絡くれって言われてたんだ!
「忘れてた」
「やっぱり。そんな予感してたよ」
 大事なことなのに、欠片さえ頭に残っていなかった。
「課題って?」
 撫子は、あたしに向かって不思議そうに問いかける。忘れていたことに衝撃を受けていたあたしは、即座に答えることができなかった。
「俺たちだけに与えられた課題さ」
 十六夜が代わりに説明すると、撫子は、ふーんと素っ気ない返事を戻していた。たぶん、言葉通りの意味として捉えたんだと思う。
 課題って言っても、ハート関連は撫子に手伝ってもらえるような話じゃない。何より、巻き込む気なんて一切ない。それだけは絶対に避けたい。
 しっかりしろ、あたし。
 寝ぼけた頭を起こすため両頬を軽く叩くと、十六夜はあたしに向き直って話を続けた。
「だから、学校終わったら時間作って欲しいんだけど」
 心なしか、十六夜は遠慮がちに伝えてくる。何を気にしているのか不思議に思ったまま承諾しようとしたら、撫子があたしの前に踊り出た。
「ダメよ。今日はあたしの先約があるの」
 撫子はあたしのひじを引っ張り、上履きを軽く蹴ってきた。
 今日は約束なんてしていない。だから、口裏を合わせろと言いたいんだろう。現に、振り返った彼女の顔は、これでもかって言うくらいニヤついていた。嫌な予感はするものの、否定する勇気までは持ち合わせていなかった。
「邪魔しないでよね」
 あたしの背後に回った撫子は、背中から抱きついてきた。何となくだけど、十六夜を挑発するためにやっている気がする。
 そして、見事に乗せられたのか、十六夜は「ま、負けないもん!」と叫びながら逃げるように自分の席に去っていった。
「くっくっく」
 うわぁ。耳元でどす黒い笑い方してるよ。この人。
「今日の放課後、ゆっくり聞かせてもらうからね」
 笑い声のボリュームを落とすと、撫子はおもむろに腕をほどいた。瞳を覗き込むと、さらに顔をニヤつかせる。何だか悔しい。
「話すこと……ないよ」
 否定したところで無駄だってわかっている。あたしだって、逆の立場なら嘘を見抜ける。そんな薄っぺらい抵抗。
 案の定、撫子は「んなわけないでしょ」と言ってあたしから離れると、
「言っていい? ねぇ、言っていい?」
 そう、十六夜の声色を真似て言い出す。
「もう、誰かと同じようなセリフ言わないでよ」
「えー? 誰と同じセリフ?」
 嬉々としてからかってくる。彼女の暴挙を押さえようと腕を振り上げたけれど、天に向いたところで手を止めた。
 背中がむなしい。胸の中心におもりがぶらさがっているようで、体がだるい。夏休み前特有の、ワントーン高い周りの声をうとましく感じる。
 肺の中の空気を全部絞り出すような深い溜め息を吐いたあと、立ち去った十六夜に目を向けた。すでに男子に囲まれていて、彼を中心に騒がしい輪ができあがっている。
「……蘇芳ってさ、ほんとムードメーカーだよね。正直言ってここ数週間、クラスの雰囲気も重かったわよ」
 しみじみとした撫子の呟きに、あたしは無言を返す。
 刺される前の十六夜と刺されたあとの十六夜。ジキルとハイドの物語を体現していた時、あたしだけじゃなくクラスメートも苦労していたのだろう。十六夜の帰還を喜ぶ人は多く、教室中があっという間に華やいでいく。
 良かったね、と伝えようともせずにぼんやりと眺めていたら、茶色い瞳といきなり目が合った。視線を反らそうかと思った瞬間、先に気づいた撫子が再度あたしに抱きついてきた。
 ヤツはと言えば、わざと挑発に乗っているのか、大げさにプイとそっぽを向いて、
「お前の体が代理じゃぁぁぁぁ!」
 と、同じクラスの男の子をぎゅうぎゅうと抱き締めていた。
「やめろ蘇芳! ちょっ! どこ触ってるんだ! やめろぉぉ!」
 盛り上がる男子達の中心から悲痛な叫びが響いてきたのを聞いて、撫子はまた黒い笑いをこぼす。
「あー……マジでウケる」
 笑えませんって。

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