Long Story

ハートの欠片 No.8

 自分の名前が特別になると同時に、相手の名前も尊くなった。喉を通すのでさえ照れくさい。でも、気がつけば口にしている。そんな……相手を乞う気持ち。
 撫子の飲むジュースを見るだけで、十六夜の顔が鮮明に浮かんでくる。そこまで重傷な状態になってしまった。十六夜の居場所をあたしの中に作ると決心したのに、実は自分の居場所を彼に求めていた。
 自覚していくほど、涙が流れる。周りの視線を気にする余裕さえ残っていなかった。
 事実が辛い。自分の気持ちが――重い。
「こんなことになるってわかってたら……好きにならなかったのに」
 引き返せる時点で止められたかもしれないのに。十六夜を好きになる前の自分にはもう、戻れない。戻りようがない。
 秘めておくには重過ぎた気持ちが溢れる。撫子は心配そうに身を乗り出した。
「こんなことって、何?」
 温かな声に、開きかけた蓋がみるみる緩んでいく。中に収まっていたのは、悲鳴を上げた願う心。あたしの小さな器じゃ狭過ぎて体中が軋む。あまりに痛くて、とうとう一番辛い真実がぽろりとこぼれた。
「十六夜がいなくなる。離れていっちゃう」
「え?」
 スカートにできていく染みに視線を落とした。拭うことも忘れて、ただ泣いた。
 あの時以来触れなかった話。言ってしまうと望まない未来を肯定するようで、どうしても言えなかった。
 十六夜とハートを知るほど、十六夜との距離が遠のいていく。全てを理解して、ハートを分離させることに成功したら、その先は?
 ……考えたくない。
「あたし……嫌だよ。十六夜の近くにいたいよ」
 何もかも終わって、ありがとうのひと言で片づけられるような気持ちだったら、もっと楽だった。分別をわきまえられる大人だったら、こんなに悩まなかったのに。
 身勝手な言い訳。誰かに責任をなすりつける負の感情がふつふつと湧き出る。後先考えずに声に出してしまうと瞬く間に惨めになる、そんな激情。やせ細った理性が、口から流れるのをせき止めてくれた。
 こんな言葉、言いたくない。
 必死で唇を噛み締めて堪えていると、
「それ本当?」
 ポケットティッシュが、スカートと目の間に滑り込んできた。綺麗な爪が、早くティッシュを取れと急かす。おもむろに手に取って撫子を見ると、彼女は申し訳なさそうに首を傾げた。
「今日はほんと、色んな顔するわね。今は『助けて』って言ってるように見える」
 拭っても止まることを知らない涙。返事ができないまま拭い続けていると、鼻先を優しくつつかれた。
「その様子なら、蘇芳がどこかに行くのも本当みたいね」
 周りはとても騒がしいのに、撫子の静かな声がはっきり届いた。体に浸透して、言葉で補わなくても心配しているのが伝わってくる。
 すがりたくて、行き場が欲しくて。
 脆い心は、差し伸べられた手へ救済を求めるように、疑問をぶつける。
「……撫子」
「ん?」
「……あたしはどうすればいい?」
 普段は毅然とした印象の強い瞳が、ほんの少し揺れた。反らさずにあたしを見続ける。何か言いた気に口を開いたけれど、声にはならなかった。
 お互いに沈黙している間、ハートのストラップに視線を止まらせていた撫子。見つめながら何か考えていたのか、唐突に首を振った。
「あんたが元気になるようなやり方、知ってたらとっくに教えてるよ」
 鬱陶しそうに髪をかき上げると、再びあたしを凝視してきた。瞳からは迷いが消えていて、微笑んでさえいた。
「あいつ、上から下までどこからどう見てもバカだけど。でも、萱の感じてる不安を受け止めるくらいの器はあると思うよ」
 力強く、きっぱりと言う。最後のひと押しとばかりに、あのバカ、といない人に向かってぼやいていた。
 十六夜がこの場にいたら確実に殴られているだろう。その光景を想像したら、すっと胸が軽くなった。
 冗談とも本気ともつかないような撫子の攻撃を、十六夜は避けもせずに受け止める。いつの間にか当たり前になっていた光景で、あたしが居たいと願う場所だ。笑いの耐えない、大好きな場所。
 悲しみで埋め尽くされた頭に笑い声が蘇る。固まっていた頬がほころび、少し笑うことができた。
「それ、褒めてんの? けなしてんの?」
「どっちかと言えばけなしてるわね」
 トレイの広告を見つめながら鼻で笑う彼女に釣られ、あたしも吹き出した。
 キャッキャと子供っぽく騒ぐ十六夜を思い浮かべているに違いない。あの満面の笑顔は……卑怯だ。もらい泣きみたいに伝染する力がある。あたしはそれに対抗する手立てなんて一切知らない。
 息苦しかった胸を解放して、大きく息を吸い込んだ。
 プラスの感情とマイナスの感情があるから、人は平穏を保てると十六夜は言っていた。それなら、マイナスに傾いたあたしは、撫子の手と十六夜の笑顔に支えられたのだろう。
 お腹の底に溜まった泥のような気持ちを追い出したくて、長く息を吐いた。
「ありがとう……すごく楽になった。あたし、撫子に甘えてばかりだね」
「何言ってんの。萱の場合、甘えるくらいが丁度良いわよ」
 ストローを勢い良く吸ってから、それにさ、とつけたす。
「転校だか何だか知らないけど、離れるのってまだ先でしょ。だったら、泣くのは先に取ってても良いんじゃない」
「へ?」
 間抜けな声で聞き返すと、あたしが泣いていた時とは違う晴れやかな笑みを見せる。ジュースを左右に振ると、氷が軽快な音を立てた。
「今は楽しまなきゃつまんないじゃないの。折角の夏休みなんだから、蘇芳も一緒に遊び倒そうよ」
「…………」
「楽しむのは今! 泣くのは後回し! いつ来るかわからんものに怯えるなんて、もったいない。今は今しかないんだからさ」
 撫子らしい持論を力説する。すっかり冷めたパイを握り、大きな口でかぶりついた。洗練された動きではないけれど、彼女は常に凛としている。長く真っ直ぐな髪は、芯の強さを表しているよう。見惚れながら、強く頷いた。
 そうだね、その通りだよ。あたしは一体、何度撫子に諭されただろう。
「撫子ってかっこ良いよね」
 素直な感想を述べると、撫子は一旦手を止めて答える。
「あたしも、性別間違えたって時々思う」
「彼氏にするなら撫子がいいな」
「はいはい。そんなこと蘇芳の前で言ったら川にダイブするから二度と言わないように」
 そこまで言い切って、撫子は何か思い出したようにピタリと口を止めた。ナゲットに手を伸ばしたあたしをしばらく見つめると、大慌てで残りのパイをたいらげる。
「ど、どうしたの?」
「川で思い出したの! 来月の花火大会行くんでしょ?」
「そのつもりだけど、それがどうかしたの」
 畳んだ包み紙をトレイに置くと、撫子は人差し指を立てた。そのまま、勢い良く鼻先に突きつける。
「あたし、邪羅君捕まえて別行動取るからさ。その間に、蘇芳に何もかも話しちゃえば?」
 ――目の前の指が楽しそうに揺れたのは錯覚だろうか。
 勘ぐる心は、含むような笑顔にかき消されてしまった。その道しか選べないと言いた気な笑顔が残る。
 遊ぶ予定しかなかったんだけどな。言えないセリフを飲み込んだ。

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