Long Story

光の欠片 No.3

 ほんの一瞬、表情が陰った。ちくりと胸が痛む。
 できれば思い出させたくない。蘇芳十六夜になりたいと止めどなく涙を流したのだから、相当辛い出来事のはずだ。
 だけどここを知らなきゃ、今の撫子に辿り着けない。
「痛かった、とかじゃないよな。どんな感じか」
 ぬるいジュースを喉に流してから、十六夜は視線を泳がせる。ガラステーブルから壁伝いに流れ、かけている制服に目を止めた。何か書いているのかと勘違いするくらい、じっと見つめる。
「刺された直後は何も変わらなかったよ。戦いが終わってこっちに戻った時かな。萱との間に大きな壁を感じた。急に、だ」
 レースのカーテンが熱い空気を受けて揺らめく。長く射し込んでいた日差しは短くなっていて、流れた時間を感じさせた。声の大きさを競い合うようなせみの声が、気温を一層暑くする。
「昨日も同じようなこと言ったけど、刺される前はひとりの人間として過ごすのが面白かった」
 鼻で笑い、困ったような笑みを浮かべる。
「笑って、怒って、騒いで。ほんと忙しいし、接してて飽きない。でも、そうやって毎日を力いっぱい過ごすのも命に限りがあるからだと思う」
「限り?」
「俺たちは肉体を持たないから、死という概念がないんだ。短い命を育む生物と違って、悠久の時を刻むことができる。俺たちはずーっと、俺たちのまんま」
 あたしの相づちを見届けてから十六夜はペットボトルを握りしめたけれど、水分は残っていなかった。半分残ったジュースを手渡すと、小さく「サンキュ」と受け取る。
「ハートの調査でここに来た時に、俺はこの体を用意した。だけど、ここにいる時だけの体だから感覚としてはただの入れ物に近い」
 ジュースをひと口含んで、話を続ける。
「生物としては立派に機能している体だけど、自分自身が生命だ、なんて思えなかった」
「うん」
「俺たちはずっと変わらない。でも、人間はどんどん変わっていく。似たような感情を持つのに、大きな違いがある」
 そこまで言って、十六夜は視線を落とす。
「一緒に過ごしたからこそ、その差がはっきり見えたんだ。だから人間が羨ましくなったのかもしれない。器を作って人間として楽しく過ごしても、やっぱりどこか違う。違和感があった。何て言うか……人間は今日を生きてるって感じ」
 十六夜は、他の誰よりも等身大の今を生きていた。少なくとも、あたしの目にはそう映っていた。
 それも、楽しく過ごそうという心意気からきていたんだろうか。
「違和感が一気に大きくなったのが、刺された後だ。人間と同じ形をしても俺に命はない。そんな俺が、人間の作る輪の中で生きているフリして楽しんで……滑稽に感じた。この手が汚らわしいとさえ思った」
 テーブルの上に置いた手のひらを、握っては広げて、繰り返す。心ここにあらずといった様子で、動く指を眺めていた。
「本気で人になりたいと、そう願った傍らで、自分を嘲笑う俺がいた。それに」
 どれだけの深く暗い思いを抱えたら、こんな苦しい表情になるんだろうか。淡々とした語りを遮って、その手を両手で掴む。
 見えない涙が見えた。今でもこんな状態なのだから、当時の彼を思うと喉の奥がぎゅっと締めつけられる。
「ごめん、もういいよ。もう十分だから」
 汚らわしくなんてない、むしろ安心をもたらしてくれる大切な手だと……そう思えるのに、声にならない。気の利いた言葉が見当たらない。
 爪が十六夜の手にくい込む感触から、ずいぶん強い力で握っていたのに気がついた。慌てて離そうとすると、開いた手であたしの手をポンポンと叩く。
「今はそんなこと思ってないから大丈夫。萱が気にする必要はないよ」
 人柄を現した柔らかい笑顔は、どこかふっきれた印象を受けた。十六夜はそうだな、と首を傾げて続きを話す。
「刺される前と後で考えると、自分が負の感情に傾いたかそうでないかっていう違いがある」
「負の感情?」
「マイナス思考ってやつ。俺の場合は、刺される前から感じていた人に対する羨望が、負に傾いたんだろう」
 爪痕がくっきり残った手で、自分の鼻をトントンと叩く。
「他に欲求はなかったからな。少なくとも、刺される前は」
「魁が作る黒い錐は、マイナス思考を大きくする力があるってこと?」
「欲求や欲望をマイナス思考に大きく傾けるんだと思う。自己分析にしか過ぎないけど」
 話の流れからすると、邪羅さんが何かを望んでいたとしたら、その気持ちが負の感情に流されてしまうってことか。
 邪羅さんが何か悩んでいるか尋ねたけれど、十六夜はきっぱり否定した。
「欲しいものとかもなかったの?」
「俺以上に知識に対する飢餓感はあったけど」
 知識欲がマイナスに傾く……どうなるのか全然想像できない。傾いたところで、撫子を巻き込むような出来事が起こるとも思えないし。どうやら十六夜も同じらしく、考え込んだまま動かなくなっていた。
 今頃、邪羅さんはどうしているのだろう。ハートのストラップに視線を落とした時、そもそも邪羅さんと連絡を取っていないことに気づく。
「ねぇ、戦いのあの空間じゃなくても、邪羅さんがどこにいるかっていうのはわかるものなの?」
「一応、俺たちはあの空間じゃなくても精神だけで繋がれる仕組みになってるけど……残念ながら拒否された」
 何だか難しい顔をする。

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