Long Story

恋の欠片 No.1

「撫子、おはよ」
「おはよう……って……どうしたの!? その怪我!?」
 翌朝。左手首に包帯を巻いた手で挨拶したものだから、撫子は椅子から飛び跳ねて近寄ってきた。包帯を優しく撫でつけて、苦そうに首を傾げる。クラスメートも目を丸くして手首を盗み見ていた。
「昨日変なところで転んじゃってさ。結構ザックリ切れちゃった」
 不自然じゃない程度に笑い飛ばす。傷の場所が場所だけに誤解されるかなと思ったけれど、さすがは親友。
「ドジねぇ」
 と、オデコを軽く小突いただけで、それ以上は深く追求してこなかった。
 ちなみに親にも同じ言い訳をしている。
 あのあと、邪羅さんが力の抜けたあたしを家まで送り、その足で病院へ連れていってくれた。
 どうやら縫わなきゃいけないほど深い傷だったらしく、仕事を終えて帰ってきた両親に説明すると、もの凄い剣幕で怒られた。仕事中でもいいから連絡してこい、と。
 普段意識したことない両親からの愛情を感じると共に、黙って手を貸してくれた邪羅さんにはとても感謝している。
 だけど、心は乾いていく一方だった。
 明るい日が射し込む教室。開け放たれた窓から湿っぽい空気が流れ込み、あたしの視線の先にいる明るい髪を舞い上げた。
 ……十六夜。
 彼は疎まし気に窓を睨みつけ、再びクラスメートとの談笑に戻った。
 特に変わった様子は見受けられない。十六夜独特の賑やかな笑い声がここまで届いてくる。
 じゃあ、あれは。あの冷たい目は何だったのだろう。
 あたしの見間違い……?
「どうしたの」
 撫子はあたしの視線を辿り、彼の後ろ頭を一瞥してから不思議そうにあたしを見る。潤んだ瞳を向けられてはじめて、顔が強ばっているのに気がついた。
「何でもないよ。大丈夫」
 否定してみたけれど、彼女は形の良い眉を跳ねさせた。
「本当に?」
 気を使ってくれているのが十分わかる、吟味された短い言葉。
 本当は誰が関係しているのかわかっているのだろう。撫子は再び十六夜を一瞥した。
「大丈夫だよ」
 同じセリフを繰り返して、彼女の席を離れる。授業がはじまるまでの短い時間を堪能するクラスメートを横目に、自席に到着。立ったままちらりと隣の席を見た。
 十六夜は同じクラスの男の子たちとじゃれあいながら話し込んでいる。表情は普段と変わりない、少年みたいな底抜けに明るい笑顔。
 昨日の光景は気のせい……だった?
 微かな期待が胸に灯る。
 声をかけてみようか。「昨日は先帰ってひどい!」と軽口を叩いてみようか。
 自分にできる演出を頭の中で思い描いたけれど、胸の鼓動は鳴り止まない。落ち着けと自制しても不安ばかりが募っていく。
 誰にも聞こえない程度に小さく溜め息をつき、あたしは席に着こうとした。
 その時、
「八重樫どうした? その包帯」
 と、隣の席で集まっているうちのひとりに声をかけられた。他の人は問いかけたクラスメートを殴りつけ、触れてはいけない話題のように咎める。
「昨日転んで、その時に怪我しちゃった」
「なんだ……危ない道に走ったんじゃねぇのか」
 意地悪そうに手首を指すので、あたしはこれ見よがしに腕を突き出した。
「縫ってきたんだけど傷口見る? 結構凄いよ」
「無理無理! おれそういうの苦手!」
 がらりと変わった表情は、恐怖に満ちたものだった。
 大げさに仰け反り、テレビの注射や手術シーンがいかにグロいかを力説する。
 あたしを含め、周囲全員が苦笑いを浮かべたけれど、途中から話が耳に入らなくなった。
 十六夜の茶色い瞳が包帯を捕らえる。長いまつげが瞬くと、まるで何もなかったように視線をそらし……彼らに向き直った。
 体の中を冷たいものがスッと通り抜ける。立ち去る背中を見つめるしかできなかった昨日の出来事が、フラッシュバックしていく。
「旦那冷たいね。また喧嘩でもしたのか?」
 あたしたちの様子に気づいてか、男の子たちがニヤニヤしながらからかってきた。
「旦那って?」と十六夜が聞くと、彼らは口と指を揃えて十六夜を示す。
 十六夜は彼らの指先を十分眺めてから、黙るあたしに顔を向ける。
 今日はじめて、目があった。
「……だってさ。旦那なんて、そんな風に思われても困るよね」
 仮面を貼りつけたような作られた笑みに、血の気がどんどん引いていく。
 もちろん異論はない。
 ないけれど返答に困った。普段なら『ありえない』とか『無理』って言葉が意識しなくても出てくるのに、今は体が発言を嫌がっている。
「蘇芳……頭でも打ったか?」
 自傷を疑ってきた男の子が十六夜の前で手を振った。いつもの十六夜じゃないと感じたらしい。他のメンバーも顔を見あわせて何か言いたそうにしている。
 だけど、十六夜にとってはその質問の方が奇妙に思えたようで、
「何で?」
 髪を掻きあげて素っ気なく聞き返した。
「何でって言われても……お前ら、マジで喧嘩してんの?」
「喧嘩なんてしてないよ」
「じゃあなんで、八重樫の傷に無反応なんだよ」
「特に言うことなかったから黙ってただけだけど。それが何? 何か変だったか?」

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