Long Story

恋の欠片 No.15

 家具らしい家具は自分が寝ているベッドとガラス製の四角いテーブルだけで、他に何もない。
 ベランダの扉が開けられているらしく、カーテンが風に揺らいでいた。ふわりと波打ち、床に直接山積みされた教科書に引っ掛かっている。その隣には、口が開いたまま放置されている学校の指定カバン。壁を伝って視線を這わせると、サイズが大きいうちの制服が目についた。
 全体的にがらんとした寂しい印象を受ける部屋。魁の中に入る前と今の状況から考えると、誰の部屋にいるのかすぐにわかった。
 あたしはベッドから下りて、雑多に積まれた教科書へ近寄る。一冊手に取って裏返すと、癖のある字で大きく名前が書かれていた。
 ――蘇芳十六夜。
「十六夜の部屋だ」
 指先で名前をそっとなぞると、不意に今までと状況が違うことに気がついた。
「どうしてあたし、ここにいるの? 時間は止まるはずじゃ」
 邪羅さんとの修行を含めると、計四回、時が止まる空間を経験した。空間に隔離される前と後は、自分は必ず同じ場所にいる。あの空間でどれだけ遠い場所に動いても、元の世界に戻ったら体は全く動いていない……それがルールであり法則だった。
 今回は違う。直前まで公園にいたのに、今は十六夜の部屋にいる。
 何でだろう。
 あたしはベランダと反対側にある扉の前に忍び寄った。閉じられた扉に頬をあてて聞き耳を立てる。人の気配はしない。
 物音を立てないよう細心の注意を払って、扉を数センチ引く。小さなキッチンが目に入った。
「キッチン?」
 もう少し隙間を広げると、金属の扉と靴が並ぶ床が見えた。玄関だった。
「え?」
 扉を開けきって広がる光景。
「ワンルーム……だよね、これって」
 玄関と部屋の間の壁に、トイレに続いているだろう扉がひとつある。背中側にはベランダしかないので、どう考えたってワンルームの間取り。
 十六夜ってひとり暮らし?
 唖然とした。高校生なのにひとり暮らしって……どういうこと。
 ぼんやりと部屋中を観察していると、玄関の鍵ががちゃりと音を立てた。反射的に体が強ばる。
「起きたのか」
 生温い風と一緒に入ってきたのは、会いたいと願った彼――十六夜の姿。コンビニ袋を下げ、気だるそうにこちらを見ている。
 今の自分にできる精一杯の笑顔を浮かべて、こくりと頷いた。
「ここは……十六夜の家?」
「ああ」
 玄関に振り返って呟かれる、短い言葉。体がちくん、と痛んだ。
「連れてきてくれたの?」
「気を失ったようだからな」
 サンダルを無造作に脱いだ彼は、鬱陶しそうに髪をかき上げる。
「そうだったんだ」
「背負って連れて帰るだけで、すれ違う人に不思議な目で見られた」
「そっか。ごめんね」
 ほんの数週間前まで交わしていた何気ない会話。十六夜がここに連れてきてくれたことよりも、普通の会話ができることが凄く嬉しかった。
「座って。これ飲んで」
 十六夜は部屋に入るなり、コンビニ袋からペットボトルを取り出してあたしに手渡す。
「あ。うん。ありがとう」
 青いラベルのスポーツ飲料が、熱い手のひらに心地よい。握りしめたまま十六夜の顔を眺めると、左の頬がほんのり赤かった。
「それ、どうしたの?」
 暗い廊下にいた時は気づかなかった。あたしが頬を指差して尋ねると、十六夜は頬に手をあてがう。
「邪羅に殴られた。責任持って君を介抱しろって言い残して……帰った」
 十六夜はコンビニ袋から炭酸飲料を取り出す。キャップを開けると、あたしのところまで甘い香りが漂ってきた。
 甘いものを口にする姿を、今まで何度見ただろう。普通、喉が乾いたら水やお茶が恋しくなるのに、彼はいつだって甘いものを選んでいた。
 朝だってそう。あたしだったら避けるような生クリームたっぷりのパンを好んで食べていた。今も顔色ひとつ変えずに、こちらが飲みたくなりそうなほど、勢い良く炭酸を流し込んでいる。
 昔の姿と何ひとつ変わらない姿を目の当たりにすると、何だか無性に……。
「……ぶはっ」
 おかしくなってきた。堪えきれずに、ついつい吹き出してしまう。
「何を笑っている」
 きっと苛立っているんだろう。声が微かにひきつっている。
 それを理解しながら、あまりのおかしさにお腹を抱えて笑ってしまった。
 ――魁の言う通りだ。十六夜だ。十六夜なんだ。
 性格や言動は全然違うのに、甘いものが好きという共通点は十六夜のまま。
 この十六夜は十六夜じゃないと否定していたのは、一体誰なんだ。自分をそう責めてやりたいほど、たった今、本人以外の何者でもないと納得させられてしまった。
 しばらく笑い続け、ようやく落ち着いた時、十六夜は背を向けて床に座り込んだ。
「ごめんごめん」
 目下で丸まる背中からは、何の反応もない。少し笑いすぎたかな、と苦笑いをひとつ浮かべて、あたしは腰を落とした。
 ……この背中に散々甘えた。自分の器の小ささを棚に上げて、散々責めた。
 十六夜、本当にごめんね。たくさん傷つけたよね。
 あたしの手が自然と背中に伸びた。
 十六夜の震えが温もりと共に手に伝わってきたけれど、構っていられなかった。溢れる想いを押しとどめることができず、触れた手を胸に滑らせて背中から抱きついた。
 鼻をつく汗の香り。顔をくすぐる長い髪の毛。大きい背中。
 呼吸も。鼓動も。
 彼の全部を包めたら……そう感じた。

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