Long Story

恋の欠片 No.17

 そのことに気づいたのは、唇が触れてから数秒後。不意に瞳を開いた時だった。
 ぶつかりそうなほど近くにある瞳は、大きく開いている。瞳孔どころか瞳の模様までもが透き通って見える。充血した瞳をふち取る睫毛が二、三度瞬くのを、ひたすら眺めていた。
 ベランダのドアから風が吹き込んだらしい。十六夜の髪がふわりと舞い、あたしの頬を撫でて行く。毛先が肌に触れた瞬間、今どんな状況に立たされているのか、自分が何をしたのか……少しずつ認識しはじめた。
 体が一気に灼熱に包まれる。大慌てで身を離して後ずさりした。ベッドマットが背中に当たり、背骨に痛みが走る。
 ……何が起こった……? あたし……?
 両手で自分の口元を塞ぐ。こもる息が熱い。
 指先が唇に触れると、自分の指じゃない柔らかな感触がせり上がるように思い起こされた。それでようやく、全てを理解する。
 キスした……あたし、十六夜に……?
 理解して、でも、できなくて。
 出来心にしては意味不明過ぎた。だけど、唇に残るリアルな感触は、現実に起こった出来事だと押しつける。
 ゆっくりと体に浸透していく時間は、あたしから落ち着きをどんどん持ち去った。何か言えるわけでもなく、かといってじっともしていられない。首を振る、頬を叩く、耳を引っ張る。どうにかして自分を保とうとしたのに、羞恥心は増すばかり。十六夜も挙動不審なあたしが不思議なのか、戸惑っているように感じる。
 前触れなくキスされたのだから、面食らって当然だ。自分だけで納得すると、さらに顔から火が出るのがわかった。恥ずかしさのあまり、両手で顔を覆って俯く。
 見ないで欲しい。そんな願いを抱えたけれど期待は裏切られた。床がギシリと鳴ると、人の動く気配がした。加速するばかりの心拍数を苦しいと感じた直後に、真近くで音が止む。近づいた十六夜はあたしの手首を思いきり掴み、顔から無理に引きはがした。
「ちょっと」
 何をするのと抗議しようとしたら、十六夜は手首を拘束したまま唇を奪う。ひたすら固まるあたしは、唇の甘さを感じたまま十六夜の閉じたまぶたを茫然と見つめていた。
 どれだけ時間が過ぎただろう。流れた時間が短いのか長いのかも把握できない精神状態で呆けていると、唇と手首が突然解放された。そして、再び俯いたあたしの頬を両手で包んで、顔を上に向けさせられる。
「いざ……」
 名前を呼ぶ隙すらないまま、またも口づける。
 触れては離れ、呼吸を整えたらもう一度重ねる。何度も何度も繰り返し、互いの熱が混ざり合った。体の感覚全てが唇一点の感触に支配され、頬に添えられた手の温もりでさえ曖昧になる。
 意識までぼんやりしてきたところで、降り注ぐキスが止まった。定まらない視線を十六夜に合わせようとすると、ぎゅうっと強く抱き締められる。
 そして、耳元に口を寄せ、
「――ただいま。萱」
 しっかりした口調で、そう言った。
「え……?」
 あたしはその言葉をすぐに掴むことができなかった。でも、体はその言葉の意味を理解したように小刻みに震え出す。
 十六夜は背中にまわした手を肩に置きなおし、静かに体を離す。狼狽えるあたしと視線を交わらせると、思い出と同じ優しい笑顔を浮かべた。
「ただいま」
 こつん、と痛くない程度に額を合わせ、甘ったるい低音で同じセリフを囁いた。
 ただいまの意味。繰り返して口にした、意味。
「十六夜?」
 麻痺した口から名前が滑る。舌と耳に馴染んだ名前。
 頭が全然働かないのに、自分の手は十六夜の存在を求めるように勝手に動いた。十六夜は浮いたあたしの手を掴み、しっかりと握り返す。
 戻った……の?
「ありがとう、萱」
 見るだけで溶けそうな笑顔を見せ、丁寧に頬を撫でて行くから……あたしの何かが壊れた。
「……う……」
 ギリギリまで張りつめていた糸が引きちぎれ、大粒の涙が流れた。次から次へと溢れ、次第にはしゃくりあげる。ただただ感情に身を任せて、泣いた。
 嬉しくて、とにかく嬉しくて。
 ごめん。十六夜。あたしやっぱりそっちがいい。笑った十六夜がいい。
 どんな十六夜でも十六夜だって言える自信あるけど、そっちの十六夜がいいよ……。
「ご、ごめん! 泣かせるつもりはなかったんだけど、いや、今までの俺の行動考えれば泣くのは仕方ないことで!」
 あたしの泣きじゃくった声と一緒に、狼狽える声が聞こえてくる。しばらくの沈黙のあと、そっと背中に手をまわして抱き締めてきた。
「だめだ俺、どこまで情けないんだ。全部俺のせいなのに……萱ごめんな」
 子供をなだめるかのように、丁寧に頭を撫でていく。三度目のただいまが頭の上から届く。
 ――そうして、あたしがようやく「おかえり」と伝えられたのは、十六夜の胸に体を預けてから十分後のことだった。

恋の欠片編 End

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