Long Story

恋の欠片 No.5

 あたしが約束を取りつけた花火は、勉強で流れてくれるだろう。十六夜の顔を見なくて済むのは、すごくありがたい。自分の口で約束を断れば良いのだけど、ふたりに説明したなら十六夜にもちゃんと伝えなければならない。それは流石にキツい。
 逃げの口実を頭で繰り返している間、あたしは十六夜を食い入るように見つめていたらしい。
 慌てて首を捻る。顔が逆方向を向いたのは、彼がこっちに向いたのと同時だと思う。ほっと胸を撫で下ろしたら、期末までの日々がふと蘇ってきた。
 ……あれ以来、十六夜の顔をまともに見ていない。顔が合いそうになれば視線をそらし、すれ違いそうになれば逃げ出す。一触即発になる恐れがあるから、極力避けて過ごした。
 テスト期間中に魁と怠惰が来なかったのは、不幸中の幸い。こんなギクシャクした状態で襲われたらと想像すると、あまりにも恐ろしい。
「萱、テストどうだった? って、ひどい点数だね。こりゃ」
 物音立てずに忍び寄った影が、あっという間にあたしの答案をかっさらった。
 長い黒髪をくるくると自分の指に巻きつけながら、呆れた声を出す。
「ちょっと! 撫子! プライバシー!」
 奪い返そうと抵抗したけど、
「何がプライバシーよ。胸張れる点数出せば恥ずかしくないでしょうが」
 そう言って物理の答案を綺麗に折り畳み、自分の制服の中に仕舞った。男の人が手出ししようものならセクハラ呼ばわりされる場所なので、あたしもおおっぴらに手を突っ込めない。
「どこに入れてんの!」
 せめてもの抵抗として手首を掴みにいったけれど、彼女はあたしの手を躱しながら楽しそうに笑う。
「どうせこんなことになるだろうって思ってたよ。誰のせいなんて言わないけどねー」
 撫子は十六夜の背中に向かってわざとらしく言った。十六夜も自分のことだと理解していそうだけど、彼は振り向かない。
 それをいいことに、撫子は十六夜の後ろ頭を睨みつける。今にも暴れそうな表情をしていたので、あたしは彼女の肩をポンポンと叩いた。
「もうわかったから返してください」
「やーよ。今日の放課後、付き合ってもらうんだから、まだ返さないわよ」
「放課後?」
 撫子はあたしの鼻先を突いてニヤリと笑った。
 よからぬことを企んでいるに違いないけど賢い彼女のことだ、悪い話じゃないだろう。
 あたしはもう一度十六夜の背中を見つめた。吐息さえも届く距離なのに、ふたりの間に崖でもあるようだ。自分はまだ、崖を飛び越える勇気がない。そして。
 十六夜はそっぽ向いて離れていくのだろう。


「それで僕が呼び出されたわけですか」
 赤茶けた髪を掻きむしりながら、邪羅さんは溜め息を吐いた。
 放課後、撫子はあたしの背中を押してファミレスへと連れてきた。この前数学の勉強会を開いていたファミレスだ。
 どういうことかと尋ねたら撫子はひと言、特訓するのよ、と答えた。
 邪羅さんの手にはあたしの答案用紙。つまり特訓というのは、物理の勉強会を示すらしい。
 鼻歌まじりにメニューを眺める撫子の隣で、あたしは邪羅さんに頭を下げた。
「……ご、ご迷惑をおかけします」
「かまわないんですけどね」
 笑顔が若干引きつっている。前回の数学もひどいものだったけれど、今回の物理も相当なものだ。きっと呆れているに違いない。
 撫子はテーブル近くを過ぎる店員さんを呼び止めて注文していた。満足そうにメニューを返してから、頬杖をついて邪羅さんに笑いかける。
「あたしの説明じゃわからないと思ったからさ。邪羅君に任せたわ」
 邪羅さんは答案用紙の隅々まで目を走らせると、折り目の通りに畳み直した。
 そして目の前のグラスに数秒注目し、静かに口を開く。
「テストや公式だと難しく感じるかもしれませんが、物も力も身近なものです」
 邪羅さんは、根本的なことからお話ししましょう、と前置きした上で三人分のグラスを手に取った。中央に寄せて正三角形を作ると、氷がカランと音を立てる。
 その瞬間、周りの騒々しさがぴたりと止んだ気がした。他人の話し声が急激に遠ざかり、鬱蒼とした森林にいるような奇妙な感覚に陥る。
 気が自然と引き締まる。身を乗り出して耳を傾けると、彼は世界の法則についてゆっくりと語りはじめた。
「物……つまり、土や木、植物や動物、細胞や分子などに関わるのが『物質』の領域です」
 と、撫子の前のグラスを人差し指で弾く。水分を含んだ音色が綺麗に鳴った。
「電力や重力といった物の動き・運動に関わるのが『力』の領域です」
 今度は邪羅さんの前のグラスを鳴らす。
「最後。生物の想い・感情に関わるのが『思念』の領域です」
 あたしの前のグラスを鳴らす。
「これら三つの領域は互いに関係し合い、それぞれ『時間』という流れに乗ることで世界は成り立っています」
 物質、力、思念と、各グラスの上で指をひと回転させる。
 集中して聞いていたけれど、話が壮大過ぎて口を挟む隙間さえ見えない。
 この話が物理のテストとどう繋がるのだろう。
「各領域は他からの影響がない限り、ただそこに在るだけです。例えば物質の領域。物というのは、力の影響を受けて初めて動くんです。こうやって……」
 邪羅さんはグラスをひとつ握って横に滑らせる。
「グラスが動くのも、僕が力を加えたからです。グラスという物質が、僕から発生した力の影響を受けたわけです」
 概念として理解しろ、と邪羅さんは言う。
「物の動きというのは大まかに分けると、留まる・移動する・回転する・変化する……この四つに分類することができます」
 邪羅さんはグラスを三人の前に戻し、テーブルの角に避けていた答案用紙をあたしに手渡した。紙ナプキンで水滴の跡を拭きながら、答案用紙に残されたあたしの弱点をあっさりと見抜く。
「拝見したところ、加速や重力で躓いているようですね」
「うん。難しい」
「今回の範囲ですと、停止したものが移動する、移動しているものが加速する、移動しているものが反対に動く……この三つの動きに絞れますので、コツさえ掴めば簡単ですよ」

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