Long Story

恋の欠片 No.6

 その言葉を機に、問題の解説がはじまる。
 邪羅さんはあたしの教科書を眺めながら、力と運動について説明していった。こんがらかった堅い結び目を解くように、あたしが間違えて覚えていたものを丁寧に修正する。物理の話だというのに、何だかおとぎ話でも聞かされているかのようで。
 前回の数学と同様、暗くなる頃には物理の問題が薄気味悪いくらい簡単に感じた。
 凄いとしか言いようがない。うん。凄い。
 邪羅さんの手腕に感心しきっていると、
「……うそ! もうこんな時間!」
 撫子が店内の時計を見るなり、慌てて腰を上げた。
「何か用事でもあるの?」
「図書館に本返しに行かなきゃ。あそこ早く閉まっちゃうのよ」
 氷が溶けきったアイスティーを一気に飲み干し、文房具をあたふたと片づけ出した。
「あ、ほんと? じゃ、急がなきゃね」
 そう言って撫子に続こうとペンケースを手にしたら、お札が視界を塞いだ。
「萱はまだ聞かなきゃいけないことあるでしょ?」
 撫子はあたしの手に千円札を握らせて指を振った。
 聞かなきゃいけないことと言われても、特にこれと言ったものは思い浮かばない。そんなあたしを見てか、撫子はテーブル席から出た途端、邪羅さんに向かって肩をすくめてみせる。
「この子喧嘩してるのよ。あの馬鹿と」
「あの馬鹿というのは?」
「蘇芳のこと」
 ぽかんとしている邪羅さんに説明した。邪羅さんは、あぁ、と頷く。
「あたしは別に」
「話せる分だけ話して、聞くだけ聞いて、それから今後のことを考えな。無理に仲直りしなとは言わないよ」
 よく考えてみれば、邪羅さんはその場へ居合わせていた。と言うか、思い出してみると病院に連れて行ってくれた礼もまだだった。
「邪羅君、今日はありがとね。また聞かせてくれない? アンタの話面白いわ」
「僕で良ければいつでも」
 邪羅さんはニッコリ笑って頷く。それを確認すると、撫子は挨拶もそこそこにファミレスを飛び出して行った。
 嵐が過ぎ去った後のように、テーブルが静まり返る。店員さんが、空いたグラスを下げた隙に、本日二回目の謝罪をした。
「邪羅さんごめんね。あたし、病院に連れてってくれたお礼もしてなかったね」
「具合はいかがですか」
 邪羅さんは、あたしの腕を指差して言う。
「大丈夫。邪羅さんのお陰だよ、ありがとう」
 抜糸が済んでいてもまだ油断できないので、包帯は巻いたままだ。汗ばむ季節だから包帯を取ってしまいたいけれど、踏み切れないのが少々辛い。
 怪我をしたあの時、直前まで何が起こっていたのかを邪羅さんへ話した。
 正直なところ、思い出すにつれて胸が痛む。
 あの時までの十六夜は、青空を思わせる笑顔が絶えなかった。
 あの時までの十六夜なら、今頃あたしと同じように物理で赤点を取り、あたしの隣で勉強を教わっていたのだろう。
 そんなことを願っている、自分の気持ちまで伝える気はなかった。十六夜へは、もうそれ以上望まないでいようと自分を戒めてきたから。
 だけど邪羅さんは、あたしの目をじっと見て言う。
「何故、明るく振る舞おうとなさるのですか」
「振る舞ってなんか……」
「今の萱さんを見ると、ただ『喧嘩した』というだけには思えません」
 居心地悪い視線を避けて、あたしは窓に目を向けた。
 撫子といい邪羅さんといい、どうしてこうも気持ちを当ててくるのだろう。
 強くて眩しい。だからこそ――痛い。
「……平気だから」
 それは自分を欺く言葉で、自分に必要な言葉。
 あからさまな強がりだとわかっている。露骨に暗い表情をしていた恐れだってある。
 だけど……見過ごしてほしい。どれだけ愚かでも、平気なふりをさせてほしい。
 じゃないと足元から崩れてしまいそうで恐い。
「確認ですが、十六夜さんは魁から攻撃を受けたとおっしゃっていましたよね」
「え? う、うん」
 邪羅さんは瞳を閉じて考え込む。数秒思案してから、ぼそりと呟く。
「勝算のない賭けごとは好みませんが、どうこう言ってる場合でもなさそうですね」
「賭けごとって?」
 問い返すと、今度は邪羅さんが視線を外した。
 テーブルを指先でトントンと叩き、空になったグラスで水を飲もうとする。中身がないことに気づくと、深く息を吐いてから再び目線を合わせた。
 そして、
「今回の一件、萱さんではなく魁が元凶かもしれません」
 あまりにも衝撃的な可能性を示した。

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